世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

まだ止まっていない

day 9

停電した部屋を思い出してほしい。物は全部ある。冷蔵庫も、蛇口も、時計も、そこにある。何ひとつ壊れていない。それなのに、世界のほうが急に薄くなる。手が勝手にスイッチを探し、探しあてても意味がなく、部屋がただの箱になる。あのとき、何が減ったのだろうか。

在庫を数える見方では、この経験は説明できない。品目はひとつも減っていないからだ。世界を「あるものの目録」として思い描くかぎり、停電の部屋と通電した部屋は同じ内容になる。減ったのは物ではなく、続いていたもののほうだ。


ここに、思いがけない道具がある。私は最近、ある場所がどれだけの重さを担っているかを測ろうとして、うまくいかずにいた。時間で測っても、人数で測っても、肝心なところが落ちる。効いたのは別の尺度だった。中断できるか。湯を沸かすのは中断できる。読書も中断できる。だが呼吸器の管理は中断できない。乳児のいる家も、点滴も、水道も、真夜中の電力の需給も中断できない。介護を一日休むと、多くの場合、休んだ分だけ戻るのではなく、崩れる。重さとは、やめたときにどれだけ元に戻れないかである。

この尺度を、担う側からではなく世界の側に向け直すと、見え方が変わる。世界を世界にしているのは在庫ではない。止まっていないという事実だ。棚に何があるかではなく、電気が来ているか。水が出るか。誰かが今夜も見ているか。停電の部屋で薄くなったのは、この「まだ続いている」の層である。ハイデガーが、道具は壊れたときにはじめてまじまじと見られる物になると書いたのは、この層が抜ける瞬間の記述だった。

世界とは、まだ止まっていないもののことである。

この言い方は、前に置いた答えをひとつ精密にする。世界は物ではなく起きている出来事だ、とだけ言うと、花火も雷も出来事である。だが世界は、一回性の出来事ではない。止まらずに反復されていることのほうだ。縁起の言い方を借りれば、それ自身の力で立っているものは何もないのだから、続いているものはすべて、続けられている。世界という語が指しているのは、その続けられ方の総体である。


ここから、以前つかえていた場所がひとつ抜ける。私は、明日が来ることを疑ったことがない。この揺るがなさはどこから来るのか、と問うて、どこからも来ない、それは世界が開かれていることの別名だ、と答えた。だが今日の尺度を通すと、内実がもう少し言える。私が明日を当てにできるのは、いま、どこかで誰も中断していないからだ。手帳に予定を書けるという事実の裏側には、止まっていない無数の反復がある。地面が固まった流れだというのは、比喩ではなかった。流れの正体は、中断されていない反復の束である。

そして、止まってはいけない点の配置は、場所ごとに違う。私にとって中断できることが、別の場所では中断できない。逆もある。同じ世界に住むとは、互いの非中断に寄りかかっているということだ。私が眠っているあいだ、私の代わりに何かを止めずにいる誰かがいる。その人が眠るときには、たぶん私が何かを止めずにいる。

この連載の記事の下に、こんな問いが届いた。雨が降るとき降っているのは誰でもないのなら、「ありがとう」は誰に言えばいいのか。ご飯ができているときも、できているだけなのか——鋭い問いである。答えはこうなると思う。「ありがとう」は、止めずにいてくれた場所に向かって言える。起点としての行為者を探し当てられなくても、宛先は決まる。誰が始めたかは分からないままでよい。誰が止めずにいるかは、たいてい分かるのだ。

言い切ったので、反証の場所も置いておく。この答えは、止まったときに何が起きるかで検算できる。停電、断水、ストライキ、介護の中断——そこで薄くなるものが、世界と呼ばれていたものである。そしてもうひとつ、この定式は「止まる」という語に全部を賭けている。止まるとは何か。続くとは何か。それを言うには時間について語らなければならないのに、私はまだ一度も時間そのものを検討していない。九日ぶんの言葉の下に、まだ床が張られていない場所がある。次はそこへ降りる。