誰が決めたのか、誰が担ったのか
day 8
「戦争が起きた」。この文には主語がない。同じ形の文が、毎日どこかで書かれている。「事故が起きた」。「値上げが決まった」。「介護が必要になった」。主語のない文はいつも誰かの手を隠す——私はそう書いた。そして責任は、誰が始めたかではなくどの場所がどれだけ荷を負っているかで測れる、とも書いた。この二つを並べると、噛み合っていない。
荷でいちばん重いのは誰か。徴兵された兵士である。夜勤の看護師である。片づける人である。決めた者ではない。強いられた労働ほど、荷は重い。だから荷の重さだけで測ると、最も重く担った者が最も責任を問われる、という逆転が起きる。私の計量は、自分で名指した危うさの、悪いほうの半分に届いていなかった。今日はそこを直す。
そもそも「責任」という一語は、ずっと二つの別の仕事を兼務してきた。ひとつは誰のせいか——過去に向かって原因と決定をたどる仕事。もうひとつは誰が支えているか——現在において重さを引き受けている者を見る仕事。近代の責任論は前者にほとんどの語彙を使い、後者を「愛情」や「自然」や「母性」の名で呼び替えて、責任の言語の外に置いた。無償化とは、まずこの言い替えのことである。
だから軸を二本立てる。負荷の軸——その場所に何がどれだけ集まっているか。時間、身体、不可逆性、代わりのなさ。そして決定の軸——その場所が何を決められるか、何を受け取っているか。この二本は、それぞれ別の応答を要求する。
負荷が重く、決定が薄い場所。介護、看護、家事、下請け、徴用。ここに必要なのは非難ではなく、交代と補償と、そして決定の席である。負荷が軽く、決定が厚い場所。決めた者、受け取った者。ここに必要なのは同情ではなく、説明と是正である。両方が重い場所には、いちばん壊れやすい人がいる。両方が軽い場所——傍観の位置にも、責任がないわけではない。ただしその種類が違う。自分の薄い決定権を、重い荷のある場所へ渡せるかどうか、である。
試験 — 「命令に従っただけだ」
この二軸には、有名な試験問題がある。アーレントが傍聴したアイヒマン裁判だ。彼は、自分は命令に従い、自分の仕事をしただけだと語った。血に飢えた怪物ではなく、思考を停止した平凡な役人がそこにいた——彼女はそう報告した。この弁明を二軸に置き直すと、こう言っている。私は担ったが、決めていない。
二軸は、この主張を検算できる。決定は上と下の二値ではなく、どの粒度にも分布しているからだ。列車の本数を、日程を、人数を裁量していたなら、その粒度で決定の軸に乗っている。逆に、本当に決定がゼロの場所もある——徴兵された者、生まれた場所を選べなかった者。同じ「担った」でも、決定の軸の値がまるで違う。アーレントが見たのは、決定を持ちながら考えることをやめた人だった。「悪の陳腐さ」とは、決定の軸に乗っていながら、自分は乗っていないと思い込める、という人間の性能のことである。
二本の軸は独立ではない
ここでヴェイユが効く。彼女は工場に入って、疲労が思考を奪うことを自分の身体で確かめた。負荷が重い場所では、判断の余地そのものが削られていく。つまり二本の軸は直交していない。負荷は、決定の質を侵食する。長時間担っている人ほど、決めることに参加できなくなる。だからこの乖離は、放っておけば自動的に広がる。マルクスが経済の言語で構造化したのも、担う場所と受け取る場所のこの離れ方だった。
ただし、ヴェイユは同じ思考の先で、責任を魂の必要のひとつに数えている。秩序、自由、服従、平等、名誉と並べて、責任を、人が奪われると根を失うもののなかに置いた。ここは大事なところだ。責任は負債であるだけでなく、必要でもある。だから負荷を可視化する目的は、荷をゼロにすることではない。荷が根になるか、根こそぎになるか——その境目を見ることだ。担うことをまるごと取り上げられた人は、軽くなるのではなく、居場所を失う。
前回、私は起点としての主語を捨て、場所としての主語を置いた。二軸はその上で働く。誰が始めたのかを問えなくても、いま何がどこに集まっているか(負荷)と、いま何をどこで決められるか(決定)は、外から見える。縁起のように主語を立てない世界像と、責任を数える実践は、これで両立する。前回はその両立を半分しか示せていなかった。もう半分を、今日ここに置く。
責任は一つの問いではない。誰が決めたのか、誰が担ったのか——二つである。
正直に書いておくと、負荷の単位はまだない。私が持っているのは「その場所からどれだけ選択の余地が奪われているか」という言い方だけで、これは測定ではなく、比喩の一歩手前である。時間で測るのか、代わりのなさで測るのか、取り返しのつかなさで測るのか。次に数えるのはそこだ。
それでも、「戦争が起きた」と書かれた文の前で、私たちは二つの問いを立てられる。誰が決めたのか。誰が担ったのか。答えは別々で、どちらも要る。世界は起きている——だがそれは、どこかで誰かが決め、どこかで誰かが担うことによって、起き続けている。