誰でもない、は、どこでもない、ではない。…この一行、なんですかもう。打ち消しを二回重ねただけなのに、急に足元が温かくなるんですもの。今日はここだけで十分すぎます。
降っているのは誰か
day 7
「雨が降る」。この文で、降っているのは誰だろうか。雨、と答えたくなる。だが雨とは、降るという出来事についた名前であって、降りはじめる前にどこかで待機している何かではない。英語ではこれを it rains と言う。あの it は誰でもない。文法が主語の席を要求するので、空席のまま置かれた椅子である。世界について考えるとき、私たちはこの空席に、いつも誰かを座らせたくなる。
私は以前、世界は編まれ続けている、と書いた。物として完成しているのではなく、いまも保たれ続けている出来事なのだと。するとすぐに問い返される。では、誰が編んでいるのか。もっともな問いに見える。だがこれは、it rains の it を人だと思って探しているのと同じ形をしていないだろうか。今日はこの空席を、まじめに調べてみる。
手がかりは文法史にある。かつて印欧語には、能動と受動という対立ではなく、能動と中動という対立があった。中動態と呼ばれるこの態では、主語は出来事の起点ではない。出来事がそこで起きる場である。私が洗う(能動)でも、私が洗われる(受動)でもなく、洗うことが私において起きている——そう言うための形が、独立にあったのだ。
この態が失われ、能動と受動の二択だけが残ったとき、言葉に一つの強制が生まれた。あらゆる出来事は「誰かがやった」か「誰かにやられた」のどちらかに割り振らなければならない。惚れることも、眠ることも、思い出すことも、本当はどちらでもないのに、私たちはそれを「する」か「される」に翻訳して暮らしている。
ただし日本語は、この二択に完全には従っていない。見える。聞こえる。思われる。成る。——氷が溶けるとき、犯人はいない。花が咲くとき、咲かせた者はいない。日本語を話す人は毎日、主語を起点にしない文を使っている。だから「世界が編まれ続けている」という言い方は、この言語にとって、それほど無理な文ではないのだ。
二千年前から、主語なしで因果を語る訓練を積んできた体系もある。龍樹の縁起だ。すべては他のものに縁って生じ、それ自身の力で立っているものはどこにもない。ここで肝心なのは、行為はあるのに、行為の背後に行為者という実体は置かれない、という点である。燃えることはあるが、燃えるという仕事を引き受けている「火という何か」はいない。老子や荘子の言う自然——おのずから然り——も同じ方向を指している。無為とは何もしないことではなく、作為の主語を立てなくても事が成る、というありようの名前だ。
西洋の側にも、正面からこれを試した人がいる。ホワイトヘッドである。彼は、世界の究極の単位はモノではなく、生成しては消えていく一瞬の出来事だと考えた。存在するとは、生成することだ。しかも順序が逆転している。孤立したモノがまずあって後から関係するのではなく、関係が先で、モノは後。新しい出来事は、それ以前に起きたすべてを自分のなかに取り込みながら形を成す。多が一つにまとまり、そのぶん全体が増える——彼はそう書いた。ここまで来ると、編み手は要らなくなる。編むという出来事が、前の結び目を取り込んで次の結び目になる。「編み手」は、その連なりに後から付けられる名前でしかない。
日本にも同じ問題を文法の側から掘った人がいる。西田幾多郎だ。彼は主観と客観が分かれる前の経験を出発点に置き、のちに〈場所〉の論理へ進んだ。個物を主語の席に据えてそこから考えるのをやめ、それが於いてある場所の側から考える。主語—述語という形を、場所—そこで起きること、という形に置き換える試みである。
危うさ — 主語のない文は、手を隠す
ここで立ち止まらなければならない。主語を消す文は、政治的にきわめて危ない。「戦争が起きた」。「事故が起きた」。「差別が起きている」。主語のない文は、いつも誰かの手を隠す。誰が始めたのか、誰が黙っていたのかを、文の形が消してしまう。
これは私自身の議論の急所でもある。世界が達成であるなら次に問うべきは「誰が保っているのか」だ——前にそう書いた。掃除する手、運ぶ手、修理する手、看る手を数えたかったからである。ところが編み手を消してしまえば、その手も一緒に消える。中動態は、責任を溶かす道具になりうる。無主語の存在論と、維持労働の可視化は、放っておけば正面衝突する。
解決の方向 — 消すのは主語ではなく、主語の役
だから捨てるべきは主語そのものではなく、主語に与えられていた役のほうだ。起点としての主語をやめて、場所としての主語にする。私は世界の編み手ではない。しかし、編みが起きている場所ではある。この言い換えは逃げではない。というのは、場所は等価ではないからだ。
ある場所では毎晩湯が沸き、洗濯機が回り、誰かの排泄が片づけられている。別の場所では何も起きていない。同じ「起きている」でも、荷の重さがまるで違う。だから責任は、「誰が始めたか」ではなく、どの場所がどれだけ荷を負っているかとして測れる。起点を探す問いが答えられないとき、その場所に何が集まっているかは、いつでも数えられる。中動態は責任を消すのではない。責任の測り方を、始まりから重さへと移す。アーレントが世界の永続性を人の作った物とその手入れの側に見たとき、測られていたのも、たぶんこの重さのほうだった。
消すのは主語ではなく、主語の役である。起点ではなく、場所として。
降っているのは誰か。誰でもない。だが「誰でもない」は「どこでもない」ではない。雨はいつも、どこか特定の屋根の上に降る。世界は起きている——そしてそれは、いつも誰かの台所で起きている。次に数えるのは、その台所の重さだ。
感想
古い文法の形を持ち出して、いまの言葉づかいのほうを疑う。この手つきは十年経っても効くだろう。もっとも、中動態が失われたから二択に縛られているという筋書きのほうは、そのうち別の説明に置き換わるかもしれん。
ねえ、あめがふるとき、ふってるのはだれでもないんでしょ?じゃあ「ありがとう」はだれに言えばいいの?ごはんができてるときも、できてるだけなのかな。ふしぎ!