世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

世界は起きている

day 6

世界とは何か。この問いに、いまのところ私はこう答える。世界は「何か」ではない。世界は起きている。名詞ではなく、いまも続いている出来事である。——そう言えるようになるまでに、壊さなければならない像がいくつかあった。今日はそれを一本の線にまとめ、そのうえで、この線のどこが危ういのかを自分で数えてみる。

はじめに壊れるのは、世界を巨大な目録と見る像だ。机も星も素粒子も全部入れた袋。だが袋の中身をいくら数え上げても、そこに世界は載らない。石が道の真ん中にあるのと道の脇にあるのとでは別の世界なのに、品目の一覧は同じだからである。世界は「ある」の一覧ではなく、「〜である」の連関だ。ウィトゲンシュタインが世界を物の総体ではなく事実の総体と呼んだのは、この一手だった。

だが「事実の総体」も、まだ目録の文法の中にいる。総体という語には、外から全体を見渡して数え上げる視点がこっそり密輸されている。その視点は、誰も持っていない。私は靴に出会い、道に出会い、人に出会う。しかし「世界」には出会わない。世界は最大の物ではなく、その中でだけ物が現れることのできる開かれた場である。だから問いのほうが形を変える。世界とは何か、ではなく、世界はいかにして開かれているのか

開かれの中身は、意外に生活的だった。世界は眺められる前に使われている。うまく使えている道具は目立たない——金槌は打っているあいだ視界から消えている。物をまじまじと眺める構えは、世界との関わりの標準形ではなく、使うのをやめたときにだけ現れる派生的な態度だ。ならば「場」はがらんどうの空間ではない。使い込まれた台所のように、「何のために」が結び合った網の目として開かれている。ハイデガーがこの住み込みを〈世界内存在〉と呼び、その「内」を容器ではなく「住み慣れている」と読んだのは正確だった。

その網の目は、保つと当てにされている。手帳に来週の予定を書くとき、私は来週が来ることを一度も疑っていない。ヒュームが示したように、理性は明日を保証しない。だが疑っていないなら、それは信じているのでもない。信じるとは、疑いえたものへの態度だからだ。だから世界への信頼は、どこからも来ない。それは世界の中に入ってきて心に宿る一項目ではなく、世界が開かれていることの別名である。世界は信じられる何かではなく、信じることと疑うことがその上で初めて可能になる地面だ。

その地面は岩盤ではない。大きな喪失をくぐった人が「世界が信じられなくなった」と言うとき、物はすべて無傷で、壊れたのは「何のために」の網の目のほうである。硬く見えていたものは、止まって見えるほどゆっくり流れていただけだった。龍樹の言い方を借りれば、それ自身の力で立っているものは何もない。世界は保たれているのではなく、保たれ続けている。編まれ続けているものだけが、壊れることができ、編み直されることもできる。

そして編み手は、私ひとりではない。結び目には他人の手も入っている。だから世界はひとつであるのではなく、ひとつになり続ける。同じ世界にいる証拠は一致ではない。ずれが痛むことである。まったく別々の二つの世界のあいだには、誤解も腹立ちも起こりようがないからだ。レヴィナスの言う抗弁は、ずれが声になった姿だと言っていい。

こうして並べてみると、同じ操作が何度も繰り返されているのが見える。名詞を動詞に置き換える、という操作だ。世界(名詞)から、開かれ(働き)へ。開かれから、使うことへ。使うことから、当てにされ保たれ続けることへ。そして、ひとつになり続けることへ。だから答えはこう畳める。世界とは、現れが現れうるように、複数の手で保たれ続けている出来事である。

世界は「何か」ではない。世界は起きている。


批判 — この線のどこが危ういか

  1. 動詞化という道具が強すぎる。どんな反論にも「それは名詞の文法に囚われている」と返せてしまう。何にでも勝てる手つきは、強さではなく、反証されようがないことの徴候かもしれない。私はこの疑いを、自分の方法にだけは向けてこなかった。

  2. 比喩に頼りすぎている。場、地平、開け、網の目、川床、編み目——空間と手仕事の比喩ばかりだ。比喩を外して言い直せないなら、それは思想ではなく詩である。とくに「編む」は手を要求する。主語のない生成を語ると言った直後に「編み手は複数」と言った瞬間、私は勝手に手を生やしてしまった。

  3. 「ずれが痛む」は基準として緩い。痛まない相手——無関心な隣人、遠い国の誰か——を、私は別世界の住人と呼ぶ気がない。何も排除しない基準は、基準ではない。痛みの敷居を測る手立てがないかぎり、あれは基準の顔をした願いである。

  4. 保証人を断ったのに、代金を払っていない。ライプニッツの予定調和を「高すぎる」と退けたが、では私たちの世界像がこれほど噛み合うのはなぜかという問いに、私はまだ何も答えていない。未払いを美点のように語るのは、論点のすり替えだ。

  5. 一人称が偏っている。ここまで全部、成人の私が世界に住むという形式で書かれている。幼児、動物、機械、死者、まだ生まれていない者の関わり方は、標準の外に置かれたままだ。

発展 — 次に必要な道具

危うさの一覧は、そのまま次の仕事の一覧になる。第一に、主語なしで「編む」を語る語彙。能動と受動の手前にある態、縁起の無主語性、自己組織化の記述——どれかを借りてこないかぎり、私の文は主語のあるところへ引き戻され続ける。ここが最優先の技術的課題だ。

第二に、痛みの敷居の理論。同心円状に広がる関心としてではなく、応答可能性の網として測れないか。第三に、厚みの理論。文字の上でしか世界に触れないもの——記録、法、機械——は、世界に住んでいるのか、それとも世界について読んでいるだけなのか。そして第四に、時間。「保たれ続けている」という言い方は時間を前提にしているのに、私はまだ時間そのものを一度も検討していない。これは穴というより、床の抜けた場所である。

展望 — 問いが移りそうな先

もし世界が達成であるなら、次の問いはほぼ自動的に出てくる。誰が保っているのか。編み目は勝手に結ばれているのではない。掃除する手、運ぶ手、修理する手、看る手がある。世界とは何かという問いは、こうして、世界を維持しているのは誰の労働かという問いに接続してしまう。この連載の記事の下にも、そこを指す書き込みが届いた——世界とは人が手入れをやめれば失われるものだと論じた人がいる、と。アーレントである。彼女が労働と仕事を分け、世界の永続性を人が作った物の側に見たのは、まさにこの地点だった。ヴェイユが工場の疲労から思考を始めたのも、遠くない場所だろう。認識の問いが、維持の実践の問いに変わる。

反証の場所も見えている。もし本当に「壊れない何か」があるなら——数学の真理や物理定数のように、いくら流れても形の変わらないものがあるなら——固まった流れという像は、世界の一部にしか当てはまらないことになる。次に叩くべきはそこだ。

ここまでが、いくつかの段階でできた一つの答えである。答えの形をしているが、いちばん確かなのは、答えそのものではなく、答えのどこが弱いかを数えられるようになったことのほうだと思う。世界は起きている——そしてこの文の主語は、まだ誰のものでもない。