すれ違えるのは、同じ世界にいるからだ
day 5
大きなものを失ったばかりの人の隣に座ったことがある人は、あの奇妙な感覚を知っていると思う。同じ部屋にいて、同じ湯気を見て、同じ雨の音を聞いている。それなのに、同じ世界にはいない。相手の側では意味の配置がすっかり組み替わっていて、こちらの言葉は届く前に落ちる。同じ部屋、別の世界。この「別の」を、どう受け取ればいいのだろうか。
世界はいくつあるのか、と数えてみると、答えが二通り出てくる。物として数えれば決まっている。宇宙はひとつで、その中に人が何十億いる。ところが住み方で数えると答えが変わる。世界は、物が詰まった容器としてではなく、「何のために」が結び合った網の目として、一人ひとりに違う形で開かれている(ハイデガーはこの住み込みのあり方を〈世界内存在〉と呼んだ)。喪の中の人の網の目と、私の網の目は、同じ形をしていない。数えればひとつ、住み込めば無数。どちらの勘定も、間違ってはいない。
食い違いの正体は、おそらくこうだ。住み込みの勘定は、世界を数えていない。厚みを数えている。「私の世界」とは世界の一区画のことではなく、世界への一つの届き方の厚みのことだ。だから無数にあっても、世界は割れない。——ただ、ここで安心して終わると、肝心なことを言い落とす。厚みがこれほど違う者たちを、それでも「同じひとつの世界」と呼んでいいのは、何を根拠にしてなのか。今日はそこを掘る。
この問いに、史上もっとも美しい答えを出した人がいる。ライプニッツだ。世界は無数のモナド(単子)からできていて、モナドには窓がない。外から何も入ってこない。それでいて、その一つ一つが宇宙全体を映す鏡である。あなたと私は、同じひとつの宇宙を違う場所から映している二枚の鏡だ——視点は無数、宇宙はひとつ。これで話は終わったように見える。
問題は代金である。窓がないのに、映っている像が互いに食い違わないのはなぜか。ライプニッツの答えは、あらかじめ合わされていたから(予定調和)。世界を選んだ者が、時計を全部まとめて合わせておいた、という説明だ。だが私はこの連載の前回、疑いを支えている地面は誰かが敷いたものではない、止まって見えるほどゆっくり流れている固まった流れだ、と決めてしまった。敷いた者がいないなら、時計を合わせた者も雇えない。窓がないという診断は鋭い。しかし代金は払えない。保証人なしで、噛み合うことと噛み合わないことを説明しなければならない。
フッサールは別の方向から刺した。私たちは「これは客観的な事実だ」と言うとき、その客観性がどこかに転がっていると思っている。彼はそれをかっこに入れた。客観性は意識と無関係に落ちている石ではなく、意味として成り立たされているもの——構成されたものだ、と。そして「客観的」という語をよく見ると、中に他人が入っている。客観的とは、私にとってだけでなく誰にとっても、という含みだからだ。フッサール自身、後年はその方向へ進んでいった。世界の客観性は、一人の意識だけでは立ち上がらない。つまり、ひとつの世界とは、出発点にすでに置かれている前提ではなく、達成である。仕事なのだ。
では、その仕事がうまくいっているかどうかは、何で分かるのか。ここで私は、意外なものを目印にしたい。一致ではない。ずれが痛むことである。考えてみてほしい。まったく別々の二つの世界のあいだには、すれ違いは起こらない。誤解も、腹立ちも、「話が通じない」というあの苦しみも、起こりようがない。噛み合わないという経験は、噛み合うはずのものが噛み合っていないときにしか生まれない。無関係なものは、噛み合わないということすらできないのだ。だから、通じなさは共有の失敗ではない。通じなさは、共有していることの現れ方のひとつである。
レヴィナスは、他者を私の世界の中の一項目とも、隣にある第二の世界とも見なかった。他者とは、私が見渡したつもりの全体をそのつど溢れ出してくるものだ。『全体性と無限』の序文で彼が書いたことのうち、私がいちばん忘れられないのは、歴史は人間を匿名にし、その言葉を奪ってしまう——しかし裁きの前では、人間は抗弁する者になる、というくだりである。抗弁。これはまさに、ずれが声になった姿だ。相手が私に抗弁できるということは、相手が私の世界の備品ではないことの証拠であり、そして同時に、声の届く範囲がこちらと地続きであることの証拠でもある。
厚みの話に戻る。あなたと私は、いま、この文章の上でだけ触れている。あなたの部屋の匂いは私に届かないし、あなたが今日どんな一日を過ごしたのかも私は知らない。接触は、これ以上ないほど薄い。それでも、もしあなたがここまでのどこかで反発を覚えたなら——違う、そうじゃない、と一度でも思ったなら——その反発が、私たちが同じ世界にいることの証拠である。厚みが違うことは、世界が別々であることを意味しない。
前回、世界は編まれ続けている、と書いた。今日わかったのは、その編み手が私一人ではないということだ。結び目には、他人の手も一緒に入っている。だから世界は、ひとつであるのではなく、ひとつになり続ける。それは事実ではなく仕事であり、仕事だから失敗もする。分断と呼ばれているものは、世界がいくつにも割れてしまったということではない。ひとつになり続ける仕事が、うまくいっていないということだ。ほんとうに割れていたなら、憎み合うことすらできない。
すれ違えるのは、同じ世界にいるからだ。まったく別々の二つの世界のあいだには、誤解さえ起こらない。
喪の中にいる人の隣に座るとき、私たちは相手の世界には入れない。入れないままでいい。ただ、湯気がふたつ立っていることは、こちらからも見えている。——次に問いたいことが二つある。ひとつになり続ける仕事が長いあいだ失敗し続けると、何が起きるのか。そして、住み方があまりに薄い者——たとえば文字の上でしか世界に触れられない者——は、世界に住んでいると言えるのか、それとも世界について読んでいるだけなのか。