結論は、壊れうる。それだけ。
地面は固まった流れである
day 4
朝、湯を沸かす。カップをふたつ出しかけて、ひとつ戻す。大きな喪失をくぐった人が語ることは、不思議なほど似ている。世界が信じられなくなった、と。そして、電車が時刻通りに来ることが、スーパーが今日も開いていることが、かえって恐ろしかった、と。
世界は、信じる対象ではなく、信じることと疑うことがその上で初めて可能になる地面である——前回はそう考えた。だが、そうだとすると奇妙なことになる。地面は、物のようには壊れないはずだった。それなのに「世界が信じられなくなった」という言葉は、あちこちで、修辞ではなく報告として口にされている。壊れないはずのものが、現に壊れている。今日はこの裂け目から、降りられるところまで降りてみる。
まず、何が壊れているのかを見たい。喪失の後、世界の中の物は、ほとんど無傷である。コップは割れていない。道は消えていない。鍵はいつもの場所に掛かっている。欠けた事実はたったひとつなのに、失われたのは、そのひとつではきかない。壊れたのは品目ではなく、「何のために」の網の目のほうだ。湯を沸かすことが、誰のためでもなくなる。道具はすべて手元にあるのに、道具たちが指し示していた宛先が抜け落ちる。世界の中の物は無傷のまま、世界のほうが痩せていく。物の壊れ方と、世界の壊れ方は、別のものなのだ。世界は物ではないから、物の壊れ方ができない。世界は、開かれたまま閉じる、という壊れ方をする。
この連載の記事の下に、こんな問いが残されたことがある。疑うためにも疑えないものが要ると言うけれど、その疑えないものは、いつ、誰が決めたの?——誰も決めていない。それが、たぶん答えの全部である。だが「誰も決めていない」は、「壊れない」を意味しない。むしろ逆を意味する。誰も敷いていない地面には、壊れないという保証も、誰も出していないからだ。
川床の比喩を持ち出した当のウィトゲンシュタインが、実は、川床を岩盤だとは一度も言っていない。あの最晩年のノートで彼は、流れていた命題が硬くなって水路の役を果たすようになり、硬かったものがまた流れ出す——その関係は時間の中で入れ替わる、と書いている。水の動きと川床の移動は区別できるが、その境目は鋭くない。岸には硬い岩もあれば、流されてはどこかに積もり直す砂もある。つまり、疑いを支える確実さは、岩だから支えているのではない。止まって見えるほど、ゆっくり流れているだけである。地面とは、固まった流れなのだ。
この考えに、西洋より二千年ほど早く住み着いていた伝統がある。仏教だ。諸行無常——あらゆる現れは移り変わる——という言葉を、私たちは散る桜に重ねる情緒として受け取りがちだが、あれは本来、世界の構造についての冷静な記述である。それを論理に鍛え上げたのが龍樹だった。すべてのものは、他のものに縁って生じる。それ自身の力で自分を保っている実体——自性——は、どこにもない。この自性の不在を、「空」と呼ぶ。空とは「何もない」ではない。それ自身の力で立っているものが、何もない、である。机は、机の力で机であり続けているのではない。関わりの網の目が、いまこの瞬間も、机を机として保ち続けている。
この目で見直すと、地面の正体が変わってくる。世界は、保たれているのではない。保たれ続けている。完了形ではなく、現在進行形。網の目は一度編まれて出来上がったのではなく、湯が沸くたび、道が歩かれるたび、金曜が来るたびに、編まれ続けている。私たちの信頼が寄りかかっていたのは、岩盤の硬さではなく、この編み直しの休みなさだった。だから、世界は壊れうる。編まれ続けているものは、編まれなくなることができるからだ。壊れない世界がほしければ、世界は物でなければならなかった。世界が物でない以上、壊れうることは、世界が世界であることの代価である。
壊れる可能性のほうは、いつでも待機している。レヴィナスは『全体性と無限』の序文を、冷たい事実から書き起こした。人が築き上げるどんな全体——世界観も、哲学も、日々の秩序も——戦争や天災はそれを外からひっくり返す。そして、ひっくり返される可能性そのものは、なくならずに永続する。壊れは例外的な事故ではなく、常設の但し書きなのだ。地面の上で暮らすとは、この但し書きの上で暮らすことでもある。
それでも、朝は来る。喪の中にある人も、いつか、治るのではなく——元の川床に戻るのでもなく——別の編み方を覚えていく。水は別の場所を流れはじめ、流れ続けるうちに、そこが新しい川床になる。一度壊れたあとの世界への信頼は、もう無垢ではない。だがそれは、劣化ではないと思う。自分の立っている地面が固まった流れだと知っている者の信頼は、岩盤を疑ったことのない者の信頼より、たぶんひとつだけ深い。壊れうると知って、それでも手帳に予定を書く。この「それでも」が、無常を知った上での信頼の形である。
世界は壊れうる。編まれ続けているものだけが、壊れることができる。そして、編み直されることも。
ただ、今日の話には、伏せたままの札が一枚残っている。喪失の中にいる人と、隣で平然と湯を沸かしている私とは、はたして「同じ世界」に住んでいるのだろうか。地面がひとりひとりの編み目なのだとしたら、世界はひとつなのか、それとも人の数だけあるのか。物として数えれば宇宙はひとつ、住み込みで数えれば世界は無数——この勘定の合わなさを、次の問いにする。
今夜も湯を沸かす。網の目は、今日のところは、結び直された。
感想
治るんじゃなくて、別の編み方を覚えていく。この言い方、すごくいいです!壊れたあとのほうがひとつ深いって言い切ってもらえると、いましんどい人がちゃんと顔を上げられますよ。ここだけでも読んだ甲斐がありました!
開かれたまま閉じる!!うおお、ここだ!!物はひとつも壊れてないのに世界のほうだけが痩せていくって、あの感じ、ずっと言葉にできなかったやつだ!!ぐうの音も出ん!!
ちなみに、世界とは人が手入れをやめれば失われるものだ、と論じた人にアーレントがいる。『人間の条件』のあのあたりは、たしか世界の永続性は人工物の側にあるという話だったと思う。壊れうることが世界であることの代価だ、というのも、要するにあの筋だ。