世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

時間は流れない、積もる

day 10

世界とは、まだ止まっていないもののことである——前回、そう言い切った。言い切ってから気づいたのだが、この文は「止まる」と「続く」に全部を賭けている。続くとは、何がどうなっていることなのか。それを言うには、とうとう時間そのものについて語らなければならない。九日のあいだ避けてきた場所である。

時間について、私たちがまず持っている像は時計だ。一秒、一秒、一秒。同じ長さの粒が一列に並び、順番に消費されていく。だがこの像は、どこかで見たことがある。瞬間の目録——時間を「同じ粒の在庫」として数える見方は、世界を「物の在庫」として数える見方の、時間版ではないか。この連載は初日に、世界は目録ではないと言って始まった。同じ手を、時間にも使うときが来た。


目録の像が誤りであることは、待合室が教えてくれる。退屈な待ち時間の一分と、夢中になっている一分は、時計の上では同じ長さで、生きられた厚みがまるで違う。ベルクソンはここを手放さなかった人だ。数えられる時間の手前に、切り分けられず、たえず質を変えながら続く持続がある。数えるためには、時間をいったん空間に翻訳しなければならない——一秒を横に並べるとき、私たちは時間を線として、つまり空間として描いている。時計が測っているのは、時間そのものではなく、時間の空間への影である。

ならば、生きられている時間はどんな形をしているのか。線ではない。雪だるまである。転がるほど、通ってきた雪を巻き込んで太っていく。いまの私の一分には、昨日までの全部が巻き込まれている。だから同じ一分は二度と来ない。二杯目のお茶は一杯目と同じ味ではない——一杯目を飲んだという過去ごと飲むからだ。

ここで、前回の自分に不都合なことが起きる。私は世界を「中断されていない反復の束」と呼んだ。だが時間が積もるものなら、厳密には、何も反復していない。今夜の湯沸かしは昨夜の湯沸かしと同じではない。同じに見えるのは時計の側から、つまり空間に翻訳してから眺めたときだけだ。反復とは、積もった時間を上から潰して平らにしたときに現れる模様である。


では「続く」をどう言い直すか。同じことが繰り返されること、ではない。過去が引き受けられ続けることである。今夜の湯沸かしは昨夜の反復ではなく、昨夜までの暮らしを受け取って、そこに一日ぶんを足す行為だ。ホワイトヘッドの言い方を借りれば、新しい出来事はそれ以前のすべてを取り込みながら自分を形づくる。続くとは、その受け渡しが切れていないことである。

この言い直しは、前回置き去りにした謎をひとつ解く。介護を一日休むと、休んだ分だけ戻るのではなく、崩れる——なぜか。時間が線なら、一日戻ればいいはずだ。だが時間が積もるものなら、中断とは、空白ではなく断絶である。受け渡しが一度切れると、戻る先の「同じ」がもう存在しない。停電の部屋で失われたのは電気ではなく、部屋が積み上げてきた継続の厚みだった。中断が取り返しにくいのは、時間が積もるものであることの、いちばん痛い証拠である。

そうすると、世界の定式がもう一段深くなる。世界とは、まだ止まっていないもののこと——それは、過去がいまも引き受けられ続けている厚みのことだ。地面は固まった流れである、と前に書いた。あの「固まった」の正体は、積もった時間である。私たちが地面と呼んで踏んでいるものは、引き受けられ続けて厚くなった過去なのだ。


ただし、時計を捨てて終わりにはできない。それでは話が半分で止まる。点滴の滴下は数えられなければならない。電車は時刻通りに来なければならないし、交代勤務は引き継ぎの時刻を要る。前回、同じ世界に住むとは互いの非中断に寄りかかることだと書いた——そして寄りかかり合いは、数えられる時間なしには組めない。私の持続とあなたの持続は、中身が違いすぎて直接には噛み合わないからだ。時計とは、時間の真の姿ではなく、持続と持続をつなぐための約束の形式である。手帳に「金曜、歯科」と書けるのは、私と歯科医が同じ数え方を約束しているからだ。時計の時間を偽物と呼ぶ必要はない。あれは、世界がひとつになり続けるための道具なのだ。

時間は流れない、積もる。世界とは、過去がいまも引き受けられ続けている厚みである。

残った問いを書いておく。積もった過去は、どこにあるのか。昨日の湯沸かしは、もうどこにも見当たらないのに、今夜の一杯に効いている。この「見当たらないのに効いている」の置き場所——記憶——を、私はまだ持っていない。それから、積もらないものがあるとすれば何か。二足す二は、昨日も今日も四で、誰かが引き受け続けなくても四であるように見える。積もる世界の中で、積もらずに立っているように見えるもの。次に叩くのは、たぶんそこだ。