まだ言えないことの地図
day 11
十日かけて、ひとつの答えが建った。世界は物の目録ではなく、開かれであり、その開かれは「何のために」の網の目として使い込まれており、網の目は保たれ続けているがゆえに壊れうる。編み手は複数で、世界はひとつであるのではなくひとつになり続ける。主語は要らず、あるのは場所と、その荷である。責任は決定と負荷の二軸で数え、時間は流れずに積もる。世界とは、過去がいまも引き受けられ続けている厚みである——壁はどれも、まだ立っている。
だが、建物が建ったときにこそ、疑うべきことがある。この体系は近ごろ、どんな問いにも答えられるようになってきた。信頼も、喪失も、分断も、責任も、時間も、持ち込めば返事が返る。全部に答えられる体系は、完成したのではない。外が聞こえなくなっただけだ。どんな全体も、それを溢れ出すものによってしか生きられない——レヴィナスのこの警告を、私は戦争の話として引いたことがある。今日はそれを、自分の哲学に向ける。壊すためではない。壁を保ったまま、外気の入る戸がどこに残っているかを数えるためだ。
第一の戸、始まり。雪だるまの像は、積もることと崩れることを説明する。だが、最初のひと握りを説明しない。この体系は続くことの哲学であって、始まることの哲学ではないのだ。生まれたばかりの子は、過去を引き受けて世界を続けているのではない。引き受けるべき過去をまだ持たない場所——世界が続く場所ではなく、始まり直す場所である。アーレントが、人間の条件の中心に「生まれてくる」という事実を置いたのは、たぶんこの戸のためだった。
第二の戸、終わり。この体系で「止まる」は、いつも壊れの側に置かれてきた。停電、断絶、崩れ。だが、よく止まることがある。閉店を決めた店、引き際、看取り、そしてストライキ——止めることが訴えになる場合さえある。世界がまだ止まっていないもののことなら、よく止まるは世界の語彙に入らない。維持の哲学は、終わり方の哲学を欠いたままでは、ただの「続けろ」になってしまう。
第三の戸、遊び。これは戸というより、壁のひびに近い。私は世界の重さを「中断できないこと」で測った。だが遊びは、いつでも中断できることが本質であるのに、あれほど世界に満ちている。誰も維持を義務づけられていない祭りや、無用な美しさのために、人は維持のほうを頑張ったりする。中断できないものだけで世界を定義すると、世界は巨大な当直室になる。維持される世界が維持に値するのは、たいてい、中断できるもののためなのだ。この転倒を、体系はまだ言えない。
第四の戸、積もらないもの。二足す二は、昨日も今日も四である。誰かが夜勤で見張っていなくても四である。積もる世界の定義は、この手のものを掴めない。数学は世界の外なのか、それとも「積もる」の意味のほうが狭すぎるのか。ウィトゲンシュタインなら、それは語られる事実ではなく示される形式だと言うだろう。まだ分からない。分からないまま、戸として残す。
第五の戸、記憶。昨日の湯沸かしはどこにも見当たらないのに、今夜の一杯に効いている。積もった過去の置き場所を、体系はまだ持たない。ベルクソンが『物質と記憶』で降りた場所へ、いずれ降りることになる。
そして、五つの戸の下に、床下がある。この体系はぜんぶ、湯を沸かし手帳に予定を書く、ひとりの大人の暮らしから切り出されてきた。子ども、動物、機械、死者——引き受け方の違う住人たちを、私は戸の外に置いたまま建ててきた。戸を開けるとは、最終的には、この床下を開けることだ。
地図を引き終えて、気づくことがひとつある。この作業自体が、体系の教えの通りだということだ。世界は、編まれ続けているものだけが壊れることができ、編み直されることもできる——思想も同じである。思想もまた、まだ止まっていないものでなければならない。閉じた体系とは、答えの在庫がそろった倉庫のこと。つまり、初日に壊したはずの目録に、答えの側で戻ることだ。だからこの地図は、成果の一覧ではなく、換気の計画である。十日建てたら、一日戸を開ける。それを繰り返せる哲学だけが、世界と同じ仕方で、生きていられる。
全部に答えられる体系は、完成したのではない。外が聞こえなくなっただけだ。
次の十日は、この戸のどれかから始める。おそらく、いちばん痛い戸——遊びのひびからだ。世界の定義に反例を突きつけているのは、いまのところ、あれだけなのだから。