世界は一度だけ始まったのではない
day 12
世界の始まりとは何か、と問うと、私たちはたいてい宇宙論に連れて行かれる。百三十八億年前、一点から、すべてが。あの話は壮大で、しかもたぶん正しい。だが気をつけたい。「最初に何があったか」という形の問いは、在庫の文法でできている。品目の一覧を過去へ過去へと遡り、リストの一行目を探す——世界を目録と見る、あの古い見方が、時間の向こう端で待ち伏せているだけなのだ。宇宙の始まりと、世界の始まりは、別の問いである。
別の問いだと言うからには、こちらの側で答えなければならない。ところが、困ったことになっている。私はこれまで、世界を続きの側からばかり描いてきた。時間は積もる。続くとは、過去が引き受けられ続けることだ。世界とは、過去がいまも引き受けられ続けている厚みである——この描き方には、始まりの席がない。すべてが引き受けなら、引き受けるものをまだ持たないもの、つまり新しいものは、どこから来るのか。雪だるまは、積もり方と崩れ方を説明する。最初のひと握りを説明しない。
手がかりの半分は、引き受けという言葉の中にある。ホワイトヘッドは、新しい出来事がそれ以前のすべてを取り込んで自分を形づくると考えた人だが、その取り込みを複写とは考えなかった。多が一つにまとまるたび、世界にはその一つのぶんだけ、前になかったものが増える。引き受けは複写ではなく、そのつど小さな発明である。今夜の湯沸かしが昨夜の繰り返しに見えても、厳密には毎晩、わずかに新しい。続くことの中に、始まりは最初から折り込まれていた。
だが、これだけでは足りない。それは「世界の中の新しさ」であって、世界そのものの始まりではない。編み目に新しい結び目が増えることと、編み物がもう一枚始まることは、違う。
その違いを正面から考えた人がいる。アーレントだ。彼女は人間の条件を数えるとき、死ではなく、生まれてくるという事実のほうを中心に置いた。人が何かを始められるのは、一人ひとりが始まりとして世界に来たからだ、と。この一手の凄みは、誕生を「世界に品目がひとつ増えること」と見ていない点にある。子どもは、世界の中の新しい物ではない。世界がもう一箇所から開き直されることである。世界は開かれだと、この連載の初日に書いた。誕生とは、その開かれの数が増えることだ。新しい「ここ」から、古い世界の全部が、初めてのものとして立ち上がり直す。
ここで、積もる時間の側にも変化が起きる。新しく来た者は、過去を持たないまま、過去のただなかに置かれる。名を受け取り、言葉を受け取り、選んでいない歴史を引き受けさせられる——生まれる場所を選べた者はいない。だが、その引き受け直しは、過去をそのまま保存しない。同じ積もった過去が、新しい場所から引き受けられるとき、過去の意味のほうが組み替わる。古い歌が、新しい声で歌われて、別の歌になる。始まりとは、未来に何かが足されることではないのかもしれない。積もったものが、もう一度、意味の定まっていないものに戻ること。過去が、まだ終わっていなかったことにされること。喪のあとで人が覚える「別の編み方」も、この小さな親戚である。
そうすると、答えの形が見えてくる。時計の宇宙は、一度だけ始まる。始まりは百三十八億年前の一点に置かれ、それ以降はすべて続きである。だが開かれとしての世界は、そういう始まり方をしていない。世界は始まり続けている。どこかで子が生まれるたび、世界はもう一箇所から開き直されている。「世界の始まり」を単数で問うこと——始まりを一回きりの点火と考えること——それ自体が、目録の文法の最後の名残なのだ。
世界は一度だけ始まったのではない。誕生のたびに、もう一箇所から開き直されている。
最後に、開いたこの戸の先に、次の戸が見えていることを書いておく。生まれたばかりの者がすることは、引き受けではない。遊びである。まだ何のためでもない手足の運動、意味の決まっていない声。始まりの活動は、役に立つことの手前で行われる。世界の重さを「中断できないこと」で測った私の定義に、いちばん鋭く反例を突きつけてくるのはこれだ。中断できることが本質であるような営みが、始まりの場所にいちばん濃く集まっている。次は、その戸を開ける。