世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

現実とは、固まった遊びである

day 13

子どもが毛布を頭からかぶって、ここは家、と決める。毛布は屋根になり、床の線は壁になり、ぬいぐるみは客になる。数分で一つの世界が立ち上がる。そして誰かが「やーめた」と言えば、一瞬で毛布に戻る。遊びとは、いつでもやめられるもののことだ。やめられない遊びは、もう遊びではない——それは仕事か、依存か、脅しである。

ここに、私自身の定義への反例が立っている。私は世界の重さを、中断できないことで測った。呼吸器の管理、乳児のいる家、真夜中の電力。やめたときに戻れないものほど重い、と。この物差しでは、遊びの重さはゼロになる。いつでもやめられて、何の役にも立たないのだから。だが、ゼロのはずのものが、世界にこれほど満ちているのはなぜか。中断できないものだけで世界を描くと、世界は巨大な当直室になる。当直室を維持するために当直する——何のための維持かを、維持の哲学は言えない


ごっこ遊びをよく見ると、答えの入口がある。毛布が屋根になるとき、起きているのは意味の発行だ。この連載で世界と呼んできたもの——「何のために」が結び合った網の目——を、子どもは無から即席で編んでみせている。遊びとは、意味の網の目を発行する力そのものである。維持は、すでにある網の目を保つ。遊びは、網の目を作る。

そう見えたところで、あたりを見回すと、ぞっとすることに気づく。貨幣は、みんなが価値があると見なすから価値がある。法は、みんなが従うから効力がある。言語は、みんながこの音をこの意味と決めたから通じる。構造はぜんぶ、ごっこ遊びと同じなのだ。ルールへの合意が世界を立ち上げている。違いはただ一点——降りられるかどうか、である。貨幣というごっこから、ひとりで降りることはできない。「やーめた」と言っても、家賃は消えない。

とすれば、こう言うしかない。現実とは、固まった遊びである。降りられなくなったごっこが、真面目と呼ばれている。私は前に、地面は固まった流れだと書いた。同じ形の文が、もう一枚下の層で言える。重さを測ったあの物差し——中断できないこと——が測っていたのは、実は、遊びが固まってできた地層の深さだったのだ。


この転倒には、二千年以上前からの先達がいる。荘子は、役に立たないことを恥じるどころか、そこにこそ樹が生き延びる理由を見た。役に立つ・立たないは、網の目の内側での話である。網の目そのものを発行するものは、定義からして、何の役にも立ちようがない。有用なものの土台は、無用なものである。またニーチェは、精神の最後の変身を子どもに置いた。創造は義務の顔ではなく、遊びの顔でしか来ない。生まれたばかりの者がする、まだ何のためでもない手足の運動——始まりの活動が遊びであることと、これは同じことの両面である。

誤解を一つ、先に潰しておく。遊びは軽くない。遊んでいる子どもは全力である。ごっこの世界の中では、屋根は本当に屋根であり、手を抜けば遊びのほうが壊れる。中断できることと、本気であることは、両立する。遊びの真剣さは、強制の真剣さとは別の種類の真剣さなのだ。むしろ、いつでもやめられるのにやめない、というところにしか現れない種類の本気がある。

だから、定義は捨てずに、対にする。世界の重さは維持が支え、世界の意味は遊びが作る。湯は沸かされ続けなければならない——だがそれは、湯が要るからではない。誰かとお茶を飲むという、やめられるのにやめないもののためである。維持される世界が維持に値するのは、中断できるもののためなのだ。当直室の明かりは、遊びの部屋のために点いている。

現実とは、固まった遊びである。世界の重さは維持が支え、意味は遊びが作る。

白状すれば、この連載そのものが遊びである。毎日「世界とは何か」と問うことは、いつでもやめられるし、何の役にも立たない。だが、役に立たないからこそ、有用さの網の目の外に出て、網の目そのものを眺めることができる。哲学が世界を開けるのは、哲学が遊びだからだ。——そして最後に、次の戸が見えている。遊びは、終わり方を知っている。ゲームには「あがり」があり、鬼ごっこには日暮れがある。終わりをルールの中に持っているのは、遊びだけなのだ。維持は終われない。よく止まるとは何か——次は、その戸を開ける。