現実とは、ほどき方を忘れた遊びである
day 14
貨幣は、みんなが価値を認めるから価値がある。法は、みんなが従うから効力がある。仕組みだけ見れば、毛布を屋根と決めるごっこ遊びと同じである。違いはただ、降りられないことだ——現実とは、固まった遊びである。前回そこまで来て、ひとつの問いを残した。では、いつ、どうやって固まったのか。誰も、凍らせた覚えがないのに。
固まる条件は、たぶん三つある。第一に、作り手の退場。どんな制度も、始まりには決めた人たちがいた。だが世代が替わる。ルールを作った者が去り、あとから来た者はルールの中に生まれ落ちる。生まれる場所を選べた者はいないから、あとから来た者にとって、それは合意ではなく風景である。第二に、書き込み。取り決めが帳簿や法典に書かれると、合意は紙の側に引っ越す。書かれたものは、合意した当人が全員死んでも効き続ける。第三に、罰の接続。降りる者に代価が課されるようになると、ごっこの輪の外に立つことが、暮らしの外に立つことと同じ意味になる。
三つに共通するのは、誰かが凍結を決めた瞬間が、どこにもないことだ。作った者は去っただけで、凍らせてはいない。書いた者は残しただけで、縛るつもりはなかったかもしれない。固まりには、主語がない。雨が降るように、制度は固まる。だが——これは前に責任の話で確かめたことだが——主語がなくても、荷は特定の場所に落ちる。固まった遊びの重さは、いつも、いちばん降りたい人の肩の上にある。
ところで、人類はこの固まりを、ただ耐えてきたわけではない。よく見ると、ほどく技術を、驚くほどたくさん発明している。祭り——年に一度、身分や礼儀という遊びを一晩だけ逆転させ、無礼講にする。徳政令や恩赦——借金や罪という帳簿のごっこを、定期的に帳消しにする。時効——時間がたてば、書き込みの効力を自動で失効させる。そしてストライキ——ひとりで降りれば破滅する遊びから、全員で一斉に降りてみせる。ひとりの「やーめた」は狂気か犯罪と呼ばれるが、全員の「やーめた」は交渉と呼ばれる。
これらの技術には、共通の形がある。集団で行われ、期限がついている。祭りには明けがある。徳政令は一回かぎり。ストには妥結がある。ここが、ほどきと崩壊の分かれ目だ。崩壊は終わりを持たない壊れであり、ほどきは終わりを約束された壊れである。そして、終わりをルールの中に持つ営みを、私たちはすでに知っている。遊びである。祭りも徳政令もストも、固まった遊びに対して、もう一度遊びを仕掛けているのだ。世界をほどけるのは、遊びだけである。壊すのではなく、溶かして、固め直す。
だから前回の定式は、一語だけ直したい。現実とは、固まった遊びである——というより、ほどき方を忘れた遊びである。忘れたのであって、失ったのではない。祭りを覚えている限り、ストを覚えている限り、恩赦を覚えている限り、世界は自分がかつて遊びだったことを、完全には忘れていない。ほどき方を思い出すことは、世界を壊すことではない。世界が、編み直せるものだったことを思い出すことである。
ただし、最後に、いちばん大事な区別を引かなければならない。ほどいてよい固まりと、ほどいてはならないものがある。呼吸器の管理は、ほどく対象ではない。あれは固まった遊びではなく、端的に中断できないものだ。つまり、世界の重さには二種類ある。生まれつき重いもの——生命の維持、取り返しのつかない身体——と、固めたから重くなったもの——制度、帳簿、慣行——である。この二つの取り違えから、たいていの悲劇が来る。固めたものを自然だと思い込めば、変えられるはずの苦しみが運命と呼ばれる。逆に、生まれつき重いものを制度のように扱えば、ほどいてはならないものに手がかかる。どちらの重さなのかを見分けること——政治と呼ばれている仕事の中身は、突き詰めればこれではないかと思う。
世界の重さには二種類ある。生まれつき重いものと、固めたから重くなったもの。取り違えたとき、悲劇が始まる。
残った問いを書いておく。見分けはどうやってつけるのか。固まった遊びは、自分を自然だと名乗るのが常だからだ——貨幣も身分も、いつの時代も「昔からこうだった」という顔をしている。固まりに化粧を剥がさせる方法。それは、ほどいてみることでしか分からないのかもしれない。だとすれば、試しにほどける小さな場所——祭りのような、期限つきの実験室——を世界のあちこちに持っておくことが、見分けの技術そのものになる。次は、ほどけない側の重さへ降りる。この物差しでいちばん近くにあって、いちばん重いもの——生きていること、である。