世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

人生は中断できない

day 15

私は世界の重さを、中断の戻れなさで測ってきた。湯沸かしは中断できる。読書も中断できる。介護は中断しにくく、呼吸器の管理は中断できない。この物差しを手に持ったまま、いちばん近くにあるものを測り忘れていたことに気づく。生きていること、である。

仕事は辞められる。ゲームは降りられる。約束は破れる。だが、生きることには途中下車がない。眠りは中断ではない——眠っているあいだも時間は積もり続け、目覚めた私は昨日の続きから始めるほかない。休暇も中断ではない。休んでいる私は、休んでいる私として生き続けている。中断とは、再開を予約した止まり方のことだ。人生には、その予約席がない。ポーズボタンがなく、あるのは片道の出口だけである。自殺は中断ではない。再開の席のない終止である。だから私の物差しでは、人生は、世界のなかでいちばん重い——戻れなさが無限大なのだから。


ここは、哲学が遊びであることをやめる場所だ。カミュは、真に重大な哲学の問題はひとつしかなく、それは自殺だと書き出した。生きるに値するかどうかという判定が、他のすべての問いに先立つ、と。彼が見据えたのは、世界が「なぜ生きるのか」に答えてくれないという事実である。問いは切実なのに、宇宙は黙っている。この不釣り合いを彼は不条理と呼んだ。そして、答えがないことを理由に降りることを拒み、答えがないまま生き続けることを反抗と名づけた。岩を山頂へ押し上げては転がり落とされる男の話を、彼は幸福の話として読み直した——毎日岩を上げ直すこと。それは、この連載が維持と呼んできたものの、いちばん古い絵である。

だが、カミュの答えは強い人の答えだという感じが、私にはずっとある。反抗せよ、と言われて反抗できる人は、まだ余力のある人だ。物差しのほうから、もう少し降りてみたい。


重さと決定の二軸で見ると、見えるものがある。負荷が最大で、決定がゼロに近い場所——選べることが何ひとつ残っていないように見える場所で、最後にひとつだけ残った決定に見えるもの。それが、あの片道の出口である。だが、ここで言葉を精密にしたい。「死にたい」と言われるものの多くは、終わりたいではなく、休みたいである。求められているのは終止ではなく中断なのだ。ただ、人生にはポーズボタンがない。だから、疲れ果てた目には、片道の出口が、世界にただひとつ残された休憩室の扉に見えてしまう。扉の取り違えが起きるのは、本人の弱さのせいではない。世界の側に、休憩室が足りないせいである。

眠りが、毎晩それを証明している。私が安心して眠れるのは、眠っているあいだ、誰かが何かを止めずにいてくれるからだ。眠りとは、自分の非中断を他人に預けることである。つまり人生は、中断できないもの同士が、互いの中断を預かり合うことでしか続かない設計になっている。重さを一人で持つようには、最初からできていない。絶望とは、自分ひとりで自分を降りたくなる病のことだとキルケゴールは書いたが、預け先を失った非中断は、たしかに人をそこへ追い込む。

だとすれば、するべきことは説教ではない。反抗せよ、でもない。休憩室を増やすことである。眠れる夜、休める職場、逃げ込める場所、代わってくれる手、そして「休むことは終わることではない」と身体で分かる経験。片道の出口しか見えない視野に、別の扉を実際に建てること。生きている者たちの世界の仕事は、たぶんこれだ。


最後に、この重さの正体をもう一段だけ言っておきたい。人生が降りられないのは、人生が檻だからではない。この連載の初日に、世界には外側がないと書いた。世界は最大の物ではなく、その中でだけ物が現れる開かれなのだから、外に出る場所がそもそもない、と。「人生は中断できない」は、あの文の一人称単数形である。私の生は、私にとって世界が開かれている当のものであって、世界の中の一品目ではない。品目なら棚から下ろせる。開かれは、下ろす場所がない。重いのは、罰だからではない。それが、世界がある、ということのいちばん近い形だからだ。

「死にたい」の多くは、終わりたいではなく、休みたいである。だから生きている者の仕事は、世界に休憩室を増やすことだ。

まだ開けていない戸がある。中断できない人生にも、いつか終わりは来る——選ばれる終止ではなく、訪れる終わりが。よく止まるとは何か、よく終わるとは何か。看取りの部屋とゲームの「あがり」が同じ棚に並ぶのかどうか。その戸は、この先に取ってある。次は、この重さを持ったまま、世界とは何かへ、まっすぐ戻る。