世界は要約できない
day 16
人生は中断できない。ポーズも早送りも巻き戻しもなく、あるのは片道の出口だけだ——前回そこまで来た。今日はこの重い事実を、嘆きとしてではなく、レンズとして使ってみたい。中断できないということは、飛ばせないということである。退屈な待合室の一分も、眠れない夜の三時間も、誰かの回復を待つ数年も、飛ばすことができない。全部を、順番に、生きるしかない。
ところで、飛ばすことを商売にしている書き物がある。要約だ。あらすじは退屈な場面を飛ばし、履歴書は書けない年月を飛ばし、年表は王の名前だけ残して民の一日を飛ばす。要約とは、中断できることにしてしまう技術である。切り出せる部分と、切り捨ててよい部分に分ける——だから、中断できないものの前で、要約は原理的に失敗する。人生は要約できない。履歴書がどれほど正確でも、それを読むことと生きることが似ても似つかないのは、このためだ。
このレンズを、世界に向ける。私は世界を途中からしか知らない。生まれたとき、世界はすでに始まっていた。死ぬとき、世界はまだ終わっていないだろう。始まりを見た者はおらず、終わりを見届ける者もいない。ビッグバンも熱的死も、途中にいる者が両端へ引いた補助線であって、誰かの経験ではない。つまり世界は、人生とまったく同じ形をしている。途中でしか出会えないもの。誰も最初から見ておらず、誰も最後まで見届けないもの。
だとすれば、同じ結論が世界にも及ぶはずだ。世界は要約できない。そして、ここまで言ったとき、ようやく分かることがある。この連載は初日に、世界は目録ではない、と言って始まった。品目をいくら数え上げても世界そのものは載らない、と。あのとき私は、目録が失敗するという事実だけを言って、理由を言えていなかった。いまなら言える。目録とは、世界の要約である。要約とは切り出しであり、切り出しとは中断である。世界は中断できない——保たれ続け、積もり続け、いまも起きている最中である——から、切り出した瞬間に、手の中にあるのは世界ではなく標本になる。ベルクソンが持続について言ったことは、そのまま世界に言える。流れは、切り分けると質が変わる。要約が必ず何かを殺すのは、手際が悪いからではない。切ること自体が、対象を別のものに変えるからだ。
世界の定式に、これで一枚加わる。世界とは、過去がいまも引き受けられ続けている厚みであり——そして未完了形でしか存在しないものである。完了した世界、まとめ終わった世界、要約された世界は、もう世界ではない。地図であり、標本であり、目録である。世界が「ある」と言うとき、この「ある」は、いつも進行形の「ある」なのだ。
これは、悪い知らせに聞こえるかもしれない。全体を見渡すことは、誰にも、永遠にできないのだから。だが裏返せば、こうも言える。要約に入らない部分にこそ、生の大半がある。履歴書に書けない待合室の一分、あらすじに残らない湯を沸かす時間、年表に載らない誰かの看病——飛ばせないからこそ生きられたものたちは、飛ばせないからこそ、要約の網にかからない。実存という言葉が指してきたのは、たぶんこの、要約からあふれる側の全部である。中断できないことは、人生の重さの正体だった。同じものが、要約不可能性という形で、人生の豊かさの正体でもある。重さと豊かさは、同じ事実の裏表なのだ。
中断できないものは、要約できない。世界は途中だけでできていて、誰も最初から見ておらず、誰も最後まで見届けない。
最後に、白状することがある。「世界とは何か」という問いは、答えとして一行の要約を要求する問いだった。世界とは——である、と。この連載は毎日その形式で答えを書き、そして毎日、答えは翌日に修正されてきた。理由が、今日はっきりした。要約できないものに、最終稿はない。だから、毎日通うしかないのである。世界とは何かという問いに対する、いちばん正直な答えの形式は、一冊の完成した書物ではなく、終わりの日付を持たない連載なのだ。世界が未完了である限り、問いも未完了でいい。明日も、途中から始める。