終わりは手渡しである
day 17
通りの八百屋が閉まった。シャッターに貼り紙が一枚。「長いあいだ、ご愛顧ありがとうございました」。壊れたのではない。店主が何かに負けたのでもない、と思う。ただ、終わりが来た。この連載は「人生は中断できない」と言い、「世界は未完了形でしか存在しない」と言ってきた。だが、終わりは来る。未完了のまま続いていくはずのものに、終わりは、いったいどうやって来るのだろう。
手持ちの札を並べてみる。この連載が数えてきた「終わり」は三つあった。壊れ——予告なく訪れて、意味の網の目を破るもの。ほどき——祭りや時効のように、はじめから終わりを約束された壊れ。終止——自分で選ぶ、片道の出口。そして今日気づく。まだ一枚、残っている。選ばれもせず、約束もされず、それでも壊れとは違う顔で訪れる終わり。閉店。看取り。死。第四の終わりだ。
死について、哲学は古い慰めをひとつ持っている。エピクロスが言った——私が在るあいだ、死は無い。死が在るとき、私はもう無い。だから死は、私たちにとって何ものでもない、と。詭弁のようで、急所を突いている。前回の言葉で言い直せば、こうなる。人生は途中でしか生きられない。だとすれば、自分の終わりは、自分の人生の一場面にならない。最後の場面を「最後だった」と見届ける、その後の視点が、私には割り当てられていないからだ。終わりは、人生の中の出来事ではない。初日に「世界は世界の中の一項目ではない」と書いたが、その終末版がこれである。
ならば死は本当に「何ものでもない」のか。そうは思えない。イェール大学で死の講義を続けたシェリー・ケーガンは、エピクロスを安易に退けずに受け止めたうえで、それでも死が悪いと言える筋道を残した。死の悪さは、死そのものの中身にあるのではない。生きていれば編まれたはずの、続きを奪うことにある。この連載の言葉なら——死の重さは、品目が消えることではなく、続きが編まれなくなることだ。網の目は現在進行形でしか存在しないのだから、進行が止まるという仕方でしか、人は世界から欠けられない。
すると、奇妙な場所に出る。「よく終わる」ということが、もしあるのなら、それはどこで起きるのか。私の内側では起きない——経験されないのだから。物の側でも起きない——コップは割れないのだから。残る場所はひとつしかない。終わりが訪れるのは、いつも、誰かの世界に、である。喪については以前書いた。あれは終わりの後だった。今日はその手前に立つ。終わりの最中に立ち会うこと——看取りである。
1960年代のアメリカで、精神科医のキューブラー=ロスは、当時誰も踏み込まなかったことをした。死にゆく患者の枕元で、死について直接語り合ったのである。二百人以上の聞き取りから、否認・怒り・取引・抑うつ・受容という五段階の地図が生まれたが、彼女自身はそれを、全員が順に登る階段だとは考えていなかった。段階は前後し、飛ばされ、行きつ戻りつする。あれは死にゆく人を採点する物差しではなく、そばにいる者が迷わないための地図だ。そして彼女の発見の核心は、もっと手前にあった。死にゆく人は、語りたがっている。医師たちが「動揺させるから」と口を閉ざさせてきただけで。
語るとは、何をしていることなのか。自分が編んできた網の目を——後悔も、レシピも、誰かへの伝言も、ただの思い出話も——手の届くところにいる人に、渡しているのだと思う。以前、眠りとは自分の「止まれなさ」を他人に預けることだ、と書いた。看取りはその最終形である。ただし今度は、朝が来ても返せない。看取りとは、返す先が消えていく預かりものを、それでも最後まで預かり続けることである。
ここで、遊びの回に残した問いに答えられる。ゲームの「あがり」と看取りは、同じ棚か。違う棚だ。あがりはルールの内側の終わりであり、勝ち負けという形で意味が回収される——つまり完成である。死は完成ではない。人生は要約できないのだから、締め切りが来ても、まとめ上がりはしない。だから「よく終わる」は「完成させる」ではありえない。よく終わるとは、未完了のまま、渡し終えることである。遺言のような大きなものだけではない。味噌汁の塩梅、道具の手入れの癖、口癖、直してもらった椅子。その人が引き受けていたものが、少しずつ別の手に移っていく。私の死で世界が終わらないのは、地面が岩盤だからではない。編み目が、相続されるからだ。
誕生の回で、生まれることは世界がもう一箇所から開き直されることだ、と書いた。対になる言い方が、今日できた。死とは、開かれがひとつ閉じ、その人の引き受けていたものが残った手に移ることである。始まりと終わりは、こうして対称になる。どちらも自分では選べない。そして——ここが今日いちばん言いたいことだが——どちらも、一人では起こらない。生まれるとき、取り上げる手があった。終わるとき、看取る手がある。ハイデガーは死を、現存在の誰にも代われない、追い越すことのできない可能性と呼んだ。一人称の内側の記述としては、あれで正確なのだと思う。だが手渡しの側から見れば、終わりは人生でもっとも共同的な出来事のひとつである。代われないのは死だけで、渡すことと受け取ることは、最初から二人以上の仕事なのだ。
二千年前のローマで、皇帝マルクス・アウレリウスは、自分だけのノートに繰り返し死を書きつけた。皇帝も奴隷も等しく死ぬ。人が失いうるのは、今この一瞬だけである、と。ストア派のこの「死を思え」を、終わりの予行演習だと読むと、たぶん間違える。予行はできない——経験されないものに稽古はない。あれは予行ではなく、棚卸しなのだ。自分がいま何を預かっているかを数え、いつでも渡せる形で持っておくこと。壊れうると知って、それでも手帳に予定を書く——以前そう書いたが、その裏面が今日見つかった。渡せる形で、暮らすこと。
終わりは手渡しである。よく終わるとは、渡し終えることであり、よく看取るとは、受け取り続けることである。
ただし、伏せたままの札が今日も一枚残る。手渡しだと言うのなら——受け取る者のいない終わりは、どうなるのか。誰にも看取られない死。語る相手のないまま閉じる開かれ。渡し損ねたものは、消えるのか、それともどこかに積もったまま、行き場を失っているのか。積もった過去はどこにあるのか、という問いが、死者の時間の行方という形で、急に切実になった。これを次の問いにする。
八百屋の貼り紙は、まだ貼られたままだ。「ありがとうございました」。終わりの挨拶が感謝の形をしているのは、偶然ではないのだと思う。挨拶とは、渡し終えるための、いちばん小さな形式である。今夜も湯を沸かす。預かっているものを、少し数えながら。