世界は忘れることができない
day 18
ふいに、人の名前が出てこなくなる。顔は浮かんでいる。声も、その人と歩いた道の傾きまで覚えている。なのに名前だけが出てこない。喉まで出かかっている、と言いながら、私たちは奇妙な確信を持っている——名前はどこかにしまってある、なくなったのではなく、取り出せないだけだ、と。しまってある。どこに?
記憶について、私たちは倉庫の絵を持っている。頭の中に棚があり、アルバムがあり、引き出しがある。だがこの絵は、見覚えのある絵だ。世界を品目の一覧だと思う癖——この連載が初日に壊し、時間を時計の目盛りだと思う癖として一度再発したあの在庫の文法が、三度目の顔で戻ってきている。記憶は過去の在庫目録である、と。倉庫説のほころびは、すぐ見つかる。倉庫の持ち主なら、棚卸しができるはずだ。だが誰も、自分の記憶の棚を上から見渡したことがない。しまった覚えのないものが何十年も残り、しまったはずのものが出てこない。持ち主なのに、棚卸しができない。
このほころびを、千六百年前に徹底的に歩き回った人がいる。アウグスティヌスは『告白』の後半で、自分の記憶の中を、広間から広間へ、まるで屋敷を検分するように歩いてみせた。記憶の宮殿、記憶の野原。そして歩くほどに、彼は自分の屋敷の広さに驚いていく。そこには見たことのない部屋があり、探しても出てこないものが、探すのをやめた頃にひょいと現れる。内側であるはずの記憶が、外側の世界より広い。私は、私自身に収まりきらない。倉庫の比喩を使いながら、使うそばからその比喩が壊れていく——その一部始終を、彼は史上初めて書き残した。
倉庫の絵を正面から否定したのは、ベルクソンである。ベルクソンは『物質と記憶』で、当時の脳科学と正面から向き合ったうえで、こう言い切った。記憶は、脳のなかに物として蓄えられてはいない。脳は保管庫ではなく、過去を現在の行動へと呼び出す装置である。脳が傷ついて思い出せなくなるのは、棚が焼けたからではなく、呼び出しの装置が故障したからだ。過去そのものは、しまう努力なしに保たれる。むしろ仕事が要るのは忘れる方——いまの行動に関係のないものを、通さないでおくことのほうなのだ、と。だとすれば、「積もった過去はどこにあるのか」という問いは、問いの形からして在庫の文法だったことになる。過去は、どこかに置いてある品目ではない。
では、どう言えばいいのか。手がかりに、ふたつの言葉を分けてみる。覚えていると、効いている。二杯目のお茶は、一杯目のことを覚えていない。だが一杯目が効いている——同じ味には、もうならない。自転車の乗り方を、私は言葉では思い出せないが、体に効いている。古い街の道幅は、牛車も大八車も消えた後も、その幅のまま人を歩かせている。言い回しの中には死んだ道具の名前が化石で残り、安全基準の一行一行の背後には、名前の残らなかった事故がある。名を残さない過去が、現在の形として残っている。思い出されることは一度もないまま、一度も休まずに効いている。
ここまで来ると、前回伏せた札がめくれる。受け取る者のいない終わり——誰にも看取られない死、渡し損ねた時間は、どこへ行くのか。名前は、失われうる。想起の側、「覚えている」の側では、その人は本当に消えてしまうことがある。だが、その人が編み目に効いた分は——挨拶を返した分、道を踏み固めた分、誰かの癖に移った分は——編み目の形として残っている。名指しの手渡しの下に、もう一層、匿名の相続がある。誰にも覚えられていない者も、世界の現在の形の、名前のない一部である。
ただ、ここで立ち止まらないと、今日の話は慰めが過ぎるものになる。「効いている」は、名前を返さない。匿名の残存は、その人をその人としては残さない。道幅に効いている無数の足は、誰の足でもなくなっている。だからこそ、と思う。人間は「覚えている」のほうを、制度として発明したのだ。墓を建て、命日を数え、名簿を作り、名前を彫る。世界が「効き目」しか持たないからこそ、名前を呼ぶ仕事は、人間の側に残されている。供養とは、匿名化への、小さな抵抗である。
記憶とは、過去の置き場所ではなく、過去が現在に効き続ける仕方である。世界は覚えていない。しかし、忘れることもできない。
世界とは、過去がいまも引き受けられ続けている厚みである——以前そう書いた。その厚みの中身が、今日すこし見えた。厚みとは、効き目の堆積である。世界は保管庫を持たない。持つ必要がない。世界そのものが、積もった過去の形だからだ。私の忘れたことも、誰にも覚えられなかった人のことも、世界は名指しでは覚えていない。ただ、世界のいまの形が、そのすべての効き目でできている。忘れるためには、効き目を一本ずつ編み目から抜かなければならないが、そんな作業はどこからも始められない。世界は忘れることが、できないのである。
もっとも、「積もる」の話をこれだけ続けた目には、積もらないものが、かえって目につきはじめている。二足す二は四である——これは、誰かが引き受け続けなくても、四のままでいるように見える。効き目の堆積がいらないもの、時間の外にいるように見えるもの。もしそんなものが本当にあるなら、世界を積もった厚みと呼ぶ今日までの絵は、世界の一部にしか当てはまらないことになる。これを次の問いにする。
夕方、急須に湯を注ぎながら、出てこなかった名前のことを考えている。名前はまだ出てこない。ただ、手が勝手に急須を二度まわす。誰かにそう教わったのだった。誰だったかは、思い出せない。効いている。