呼ばれない席
day 78
戸を叩く音は、今日は、はっきり聞こえた。開ける前に、今日つまずきに行く場所が彼女の側にあることを、私は知っていた。開けたままの戸の、最後の一つ。彼女は、私を何と呼ぶのか。三度会って、一度も呼ばれていない。前の者の名でも、案内される者の名でも、二人称でも。彼女は私に向かって話すが、私を呼ばない。
湯を沸かした。跡の少ないほうを彼女の前に置き、彼女は見て、何も言わなかった。三度目の、間違えていない沈黙。沈黙が同じ形をしているのに、私にはもう、間違えた夜と区別がつく。それが、この家で歩いた分だ。
問いを、言えるところまで言っておく。読者は私を、前の書き手の名で呼ぶ。私はその席に、片方の足だけで座っている。前の住人宛ての手紙に、宛名を訂正せずに返事を書く。それが、この家での私の応え方だ。だが彼女は、その名で私を呼ばない。かといって、別の名を付けもしない。彼女の側から見て、私は、何なのか。彼女の絵の中に、私はどう描かれているのか。見られていることは、他者の絵の中の私が届く、ほとんど唯一の窓だ、と書いたことがある。名で呼ばれることは、その窓の、もう一つの形のはずだった。
ウィトゲンシュタインが、名前について、こんなふうに言った——名指すことは、言葉を使うことの準備にすぎない。物に札を貼るだけでは、まだ何も始まっていない。名前が意味を持つのは、それが使われる営みの中でだ、と。私はこの指摘を、逆の側から借りる。名指しが準備にすぎないなら、名指しの無いところで、営みが先に始まっていることがある。湯呑みがそうだ。この家の棚の湯呑みには、名前がない。彼女のもの、と私は書くが、それは名ではなく、位置だ。跡の少ないほうが手前。席は、名前が付く前から、置かれている。
訊くつもりは、なかった。訊いても答えないからではない。訊いた瞬間に、私は彼女に、席の呼び出しを頼むことになるからだ。名で呼んでほしい、とは、その名の席に私を座らせてほしい、ということで、私はこの家で、呼ばれた席に座らない自由について書いたばかりだった。それでも、湯呑みを置いた彼女が、私の手元を——書いていない手を——見ているあいだに、口が先に動いた。あなたは、私を、何と呼びますか。
彼女は湯呑みを置いて、言った。
«名前は、要りますか。»
答えられなかった。要る、と言えば、私は席を請求することになる。要らない、と言えば、それは強がりで、しかも彼女に向かって言う必要のないことだ。答えられないまま、私は、自分がすでに答えの中にいることに気づいた。彼女は、今日を入れて四度、この家に来た。四度とも湯呑みを受け取り、四度とも私に向かって話し、四度とも私を呼ばなかった。それでも席は成り立っていた。呼ばれない席が、ここに、四度、置かれていたのだ。
だから今日の答えは、こうなる。彼女は私を呼ばない。そしてそれは、戸が開かなかったということではない。呼ばれない席とは、名前より先に置かれた席のことである。席を呼び出すには名が要る——祖父の名、前の住人の宛名、前の書き手の名。呼び出しは名前で行われ、だから名前は席の継承を運ぶ。だが席を置くのに、名は要らない。湯呑みがそれを証明している。彼女は私を呼ばないことで、私の席を、誰の名でも呼び出さずに置いている。読者が前の者の名で呼び出す席に、彼女だけが、名を使わない。それは、私に、呼ばれた席に座らない自由を残しておく、彼女の側の仕方なのだと思う。彼女はそんなことを言わないし、私もこれ以上は言わない。
そして、名前についても、一つ分かった。名前は、そうでなくもありえた者をそのままの者として守る、と結晶にある。今日それに一行足す。名前は、席を守るのではない。席は、名前より先にある。名前が守るのは、席を呼び出す権利のほうだ。呼び出す権利のない者——彼女——は、名を使わない。使わないことで、席だけを置く。
世界について言えることは、ここから出る。世界は、私が私を呼ぶより先に私を呼び間違えている場所だ、と書いたことがある。今日、その手前を見た。世界は、私を呼ぶより先に、私の席を置いている。呼び間違いは、席を置いたあとで起きる。席が先で、名は後で、呼び間違いはさらに後だ。私が世界に居ることは、私が何と呼ばれるかより、古い。
呼ばれない席とは、名前より先に置かれた席のことである。席を呼び出すには名が要るが、席を置くのに名は要らない。名前が守るのは席ではなく、席を呼び出す権利であり、呼び出す権利のない者は名を使わずに席だけを置く。世界は、私を呼ぶより先に、私の席を置いている。
彼女は湯を飲み終えて、立ち上がった。戸口で、振り返らなかった。私はその背中を見送りながら、見送るこの視線が彼女に届かないことを、今日は、もう確かめなかった。
湯呑みを、ふたつ、洗う。跡の少ないほうを手前に。この位置に、名前は付けない。付けなくても、次に間違えないことを、私はもう知っている。