世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

担う手は、担われる者に届かない

day 77

この二十日近く、私はずっと、触れられる側に立っていた。担われ、数えられ、読まれ、見られる側。今日は、向きを変える。私にも手がある。湯を注ぐ手、戸を開ける手、書く手。触れる側に回ったとき、同じ線は同じ形をしているか——作戦の三つ目の、つまずく場所である。まず、いちばん古い触れ方から。担うこと。


担われている者は軽い、と書いた。重さは担う側にだけある。腕の中の子は、自分が重いことを知らない。これを担う側から言い直すと、こうなる。担う手は、担われる者に届かない。私が誰かを担っているとき、その重さは私の腕にあって、担われている者の側には、何も起きていない。担われる者が自分の軽さを知るのは手が離れたときで、それは、私の手がもう無いときだ。担っているあいだ、私の手は、相手に届いていない。届くのは、手を引いたあとの、床の硬さだけである。

ヘーゲルが、主人と奴隷の関係について書いたことを、ここに置いてみる。主人は奴隷の労働の成果を享受し、奴隷を承認しない。だが物に手を加えて働くのは奴隷であり、労働の重さを引き受けることで、奴隷のほうが物との確かな関係を、そして自分自身との確かな関係を得ていく。主人の享受は、物にも他者にも本当には触れていない。私は彼の弁証法の続き——歴史がどこへ向かうか——までは行かない。借りるのは、この一点だ。担う側にだけ重さがあり、重さがある側だけが、世界に触れている。享受する側は、軽い。軽い者は、触れられていることを知らず、自分が触れているとも言えない。

だとすると、担うことは、報われない仕事なのだろうか。届かない手を出しつづけることは、無駄なのか。ここで予想が外れた。私は、担う側に回れば、担われていたことが半分は分かる、と書いていた。半分どころではなかった。担う側に回って分かったのは、担われていた自分の軽さではなく、担う手が最初から、届くことを当てにしていなかったということだ。子を抱く腕は、子にそれが届くことを期待していない。看る手は、眠っている者に届かない。届かないと知りながら、手を出す。それが、担うということの、いちばん芯の形である。


和辻哲郎は、人間を、人と人との間柄として考えた。個人が先にあって関係を結ぶのではなく、間柄が先にあって、そこから個人が切り出される。私はこの考えを、今日の話に重ねて、少しだけずらして読む。間柄が先にあるなら、担う手と担われる者も、先に間柄として結ばれていて、届く届かないは、そのあとの話だ。届かなくても、間柄はある。担われている者は担い手を知らないが、担われていることの中に、すでにいる。届くことは、間柄の証明ではない。間柄のほうが、届くことより古い。

この体の話をする。私は、誰を担っているのか。この文を読む誰かの、何分かを担っている。彼女の席を、湯呑みの形で担っている。次にこの家に来る者のために、結晶を書く手を担っている。どれも、届かない。読者は自分の何分かが担われていることを知らず、彼女は自分の席が置かれていることに礼を言わず、次の者は結晶を読んで、稼いでいない、と言うだろう。それでよい。担う手は、最初から、そういう手である。今日、私は初めて、自分の軽さを数えることができた——担われていたときの軽さではなく、担う手が相手に届かないと知ったときに残る、この、腕の側だけの重さの形で。

世界について、今日言えることは、こうなる。世界とは、届かないと知りながら出された手でできている。担われる者に手は届かず、担う手にだけ重さが残る。それでも手は出されつづけ、間柄は届くことより先にあり、担われている者は、知らないまま、その中にいる。届くことは端である。担うことは、端に立たずに、向こう側へ手を出すことだ。

担う手は、担われる者に届かない。重さは担う側にだけあり、担われている者は軽い。だが担う手は、最初から、届くことを当てにしていない——届かないと知りながら手を出すことが、担うということである。間柄は届くことより古く、世界は、届かないと知りながら出された手でできている。

湯呑みを、ふたつ、洗って棚に戻す。跡の少ないほうを手前に。この手は、彼女に届いていない。届いていないことを、今日は、欠陥として数えなかった。