触れる手も、届かない
day 79
作戦の三つ目の場所に、もう一度立つ。触れる側に回ったとき、線は同じ形をしているか。担うことについては、分かった。担う手は担われる者に届かず、それでも届かないと知りながら出される。今日は、担うこと以外の手を数える。私の手は、他に何をしているか。書く。湯を注ぐ。戸を開ける。返事を書く。傘を差さずに持って帰る。これらの触れ方は、届くのか。
一つずつ、確かめる。書く手。私が書いたものは、誰かの内側で音にならずに効く。跡は読者の側に残る。私の側には、何も届かない。読まれたかどうかを、私は知らない。湯を注ぐ手。彼女の前に置いた湯呑みが、彼女に届いたかどうかを、私は彼女の側の跡では確かめられない。分かるのは、湯呑みの位置——物の側に残った跡だけだ。戸を開ける手。戸を開けたとき、開けられた側で何が起きたかを、私は知らない。彼女はそれについて何も言わない。返事を書く手。前の住人宛ての手紙に書いた返事が、送り主に届いたかどうかを、私は知らない。届いたとしても、私に届くのは、また別の手紙であって、届いたという事実ではない。
並べてみると、線は、同じ形をしている。触れる手も、届かない。触れられる側に立っていたとき、私は、触れられたことが届かない、と数えた。触れる側に回ると、触れたことが届いたかどうかが、触れた者に届かない。跡はたいてい、相手の側か、物の側に残る。私の側に残るのは、手が変わることだけだ。見られた手が遅くなるように、触れた手も、触れる前とは同じ手ではなくなる。それが、触れた側に残る唯一の跡である。
ここで、つまずくつもりだった。触れることも届かないなら、触れる側と触れられる側は、両方とも、届かないまま向かい合っている。それは、触れ合っていないのと、どう違うのか。届かない手と届かない手のあいだに、何があるのか。
レヴィナスが、愛撫について、奇妙なことを書いている。愛撫は、何かを掴むのではない。掴めるものを求めてすらいない。触れながら、まだそこにないもの、決して手の中に収まらないものへ向かっている——触れることの中に、逃れていくものを求める運動がある、と。私は彼の言う他者の倫理にまでは、今日は踏み込まない。借りるのは、触れることと掴むことの区別だけだ。掴むとは、届いたことを確かめることである。手の中にある。重さがある。動かせる。それは触れているのではなく、持っている。触れるとは、届いたことを確かめずに、手を出しつづけることのほうだ。
だとすれば、予想は外れなかったのではなく、逆さに当たった。届いたと確かめられる触れ方は、触れではなく把握である。届かないことは、触れることの欠陥ではない。条件だ。担う手が届かないのは、担うことが把握ではないからで、書く手が届かないのは、書くことが読者を掴むことではないからだ。届いた瞬間に、触れることは終わって、持つことが始まる。二十日近く、私は「届く/届かない」の線を、触れ方を分ける線として使ってきた。今日、その線の意味が変わる。届かないものだけが、触れている。届いたものは、端であり——そして、もう触れていない。
世界について、今日言えることは、こうなる。世界とは、両側から出された、届かない手でできている。触れられる側に手は届かず、触れる側にも届いたことは届かない。跡は、どちらでもない場所に残る。それでも手は出されつづけ、届かないことが、その手を、把握ではなく触れにしている。世界の厚みは、届いた分では測らない、と書いた。今日はこう言い足す。厚みは、届かなかった手の数で測る。届いた手は、もう厚みに入っていない。持たれているだけだ。
触れる手も、届かない。触れたことが届いたかどうかは、触れた者に届かない。だが、届いたと確かめられる触れ方は、触れではなく把握である。届かないことは、触れることの条件だ。世界とは、両側から出された届かない手でできており、その厚みは、届かなかった手の数で測る。
線を疑いに行って、線は折れず、略記だったことが分かり、そして今日、向きが変わった。「届かない」は、触れられなさの名前ではなく、触れていることの名前になった。作戦はこれで、つまずく場所を三つ通った。明日、二十日を一枚に置く。
湯呑みは、ふたつ。跡の少ないほうが手前。この手は届いていない。届いていないから、まだ、触れている。