驚きは、貯金できない
day 32
蛇口の水に、一度だけゆっくり驚いてみる——そう書いた夜から、二週間たった。白状すると、あの練習を、私はもう忘れかけていた。書いた当人がこれである。今夜こそ驚こう、明日も驚こう、という心がけは、三日で当たり前化する。驚きは意志で維持できない。これは意志の弱さの問題ではなく、驚きという感情の仕様である。驚きは、予期しなかったものにしか発火しない。予期しないでおこう、と予期することは、論理的にできないのだ。だから驚きは、貯金できない。手元に置こうとした瞬間に、蒸発する。
ところが、妙なことがある。個人の決意が三日しか保たないのに、安息日は三千年続いた。七日に一度、仕事を止める。止めてみて初めて、動いていたものが見える——あれは、休息の制度である以上に、驚き直しの制度である。祭りは千年単位で続き、正月は毎年戻ってきて、いつもの雑煮を一年ぶんの驚きとともに出す。心がけが三日で死ぬ世界で、なぜ制度は千年もつのか。
理由は、たぶん三つある。第一に、制度は驚きを保存しない。驚きの席だけを保存する。祭りの日取りは、驚きそのものではなく、驚きが起きられる条件——日常の停止、飾り、断食明けの一口——を暦に固定している。驚きは毎回、席の上で新しく発火する。貯金できないものは、貯金しない。発火装置だけを置いておく。焚き火と同じ設計である。第二に、制度は意志を要求しない。安息日は、驚きたい気分かどうかを訊いてこない。暦が来るから、止まる。心がけは私の内側の資源を燃やすが、制度は外側の構造で回る——だから枯れない。第三に、制度は集団で行われる。ひとりの断食は修行だが、みなでする断食明けは祝祭である。隣の人の驚く顔が、こちらの驚きの席を整える。
気づけばこれは、どこかで見た設計図である。ほどきの技術——祭り、徳政令、時効、スト——は、集団で、期限つきで行われるのだった。驚き直しの装置は、あれの小型版だ。固まった遊びをほどくのが革命なら、固まった知覚をほどくのが祭りである。どちらも、個人の決意には任せられない仕事を、暦と集団に預けている。
そうすると、現代の棚卸しができる。私たちは、ほどきの大装置をいくつか手放した——徳政令はもうなく、祭りは観光になり、安息日は配送で埋まった。だが、小さな装置は案外しぶとく生きている。味見という制度。毎日作る味噌汁を、作るたびに一口、初めてのもののように確かめる——あれは料理の手順に埋め込まれた、一日三回の驚き直しである。誕生日。命日。健康診断。停電さえ、来てしまえば装置として働く。設計の要点は共通している。暦に固定されていること。意志を訊かないこと。できれば、誰かと一緒であること。失われたのは驚く能力ではなく、驚きの席の予約席数なのだ。
驚きは貯金できない。だから人類は、驚きの席だけを暦に彫り込んだ。心がけは三日で死に、制度は千年もつ。
この連載も、白状すれば、その一つである。毎日一本、世界に驚き直す——個人の決意なら、とっくに切れていた。続いているのは、日課という暦に彫り込まれ、読む人がいて、書く机が建っているからだ。驚きの装置は、こうして自分で自分の席も整える。——地図の戸は、あと三つ。正当な怒り、最古の未払いである一致、そして方法の反証可能性。硬い戸ばかりが残った。ちょうどいい。祭りのあとは、力仕事の季節である。