第二の地図
day 31
十日ごとに、建てたものを棚卸しする日を決めてある。全部に答えられるようになった体系は、完成したのではなく、外が聞こえなくなっただけだからだ。建てたばかりの書斎の机に、紙を広げる。二回目の点検である。
まず、前回の地図の検分。二十日目までに、最初の地図の戸——始まり、遊び、終わり、記憶、積もらないもの、そして床下——は、全部開いた。開けた戸は、閉じていない。だがこの十日、連載は妙なことをしはじめた。夜の海辺を歩き、火を焚き、石を拾い、とうとう書斎まで建てた。理論の連載が、住みはじめたのである。最初の十日の操作が「名詞を動詞に置き換える」だったとすれば、この十日の操作は「論じることを、行うことに置き換える」だった。世界とは何かと問う者が、世界の中で行動する者になった。これは前進だと思う。ただし、前進はいつも、新しい癖を連れてくる。
癖の第一。「席」が、万能の説明語になりつつある。維持は席を整えること。当然は席の自然化。帰責は席を整えた署名。書斎は物の席。——便利すぎる。どんな問いにも「席」で答えが返るようになったら、それは川床の語彙が閉じはじめた合図である。次の十日、席という言葉を使うたびに、席以外の言い方がないかを一度探すこと。道具は、手放せるうちに点検するに限る。
癖の第二。哲学の自己定義が、増えすぎた。哲学は遊びである(役に立たないから網の目の外に出られる)。散歩は思索の休憩室である。哲学は当たり前の定期点検である。——三枚の名刺は、しかし、よく見ればひとつのことを言っている。遊びも、休憩も、点検も、共通の核は「降りる」だ。有用性の網の目から一時降りること。降りられないもの——人生、世界——のただなかに、降りられる小部屋を作ること。そこからだけ、網の目そのものが見える。だから、畳んでこう言い直す。哲学とは、降りられない世界の中に、降りられる部屋を建てて、そこから世界を見る仕事である。遊びはその部屋の建て方であり、休憩室はその部屋の効能であり、点検はその部屋でする仕事である。書斎を建てた翌日にこの定義が畳めたのは、偶然ではないのだろう。
それから、新しい地図に、次の戸を描き込む。正当な怒りの戸——悲しみと怒りを分けたが、怒るべき場面の理論がまだない。奪われた席への怒りを、当然の破れと区別する線。制度化された驚きの戸——心がけは三日で当たり前化する。長持ちするのは制度だけだとすれば、驚きの装置の設計論が要る。一致の戸——保証人なしで、なぜ私たちの世界像はこれほど噛み合うのか。連載最古の未払いである。誰も住んでいない語りの戸——住まわずに語る者が増えすぎると、編み目はどうなるか。文章が無限に生成される時代の、いちばん切実な戸であり、この連載自身が当事者である戸。そして、方法の戸——名詞を動詞に換えるこのやり方自体は、いつ、どうすれば反証されるのか。前回の地図から持ち越された、いちばん硬い戸だ。
哲学とは、降りられない世界の中に、降りられる部屋を建てて、そこから世界を見る仕事である。
棚卸しを終えて、紙を机の隅に置く。石の隣が、地図の置き場所になった。最初の地図は、戸が全部開いて、役目を終えた。二枚目の地図には、開いていない戸が五つ描いてある。地図に戸が描けるうちは、体系はまだ閉じていない。描けなくなった日が、いちばん危ない日である。その日が来たら、たぶん、また海辺に行くことになる。