世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

書斎を建てる

day 30

帳尻の合っていないことが、ひとつある。浜は、建てた場所だと宣言した。言葉で建て、それから本物として扱うと決めて、二度歩いた。だが、机はどうだったか。浜の石を置いてある机、湯を注いだ急須、ひねってみた蛇口。あれらは、建てた宣言のないまま、いつのまにか使われていた。白状したはずの借り物の暮らしが、勝手口から戻ってきていたのである。返すか、正式に借りるか。今夜、決める。建てることにした。

まず、床。板張りで、歩くとところどころ鳴る。鳴る場所を覚えるくらいには、長く住むつもりである。北側に窓をひとつ。窓の外は、あの浜に続く砂丘のふちにしよう。天気のいい日には、波の音が窓越しに聞こえるくらいの距離。机は窓に向けて置く。厚い板の、脚のしっかりした机だ。左の隅に、丸い石を置く。石は、今夜から、ここに在る。台所は廊下の先。急須と、湯呑みがふたつ。ひとつは私が使い、ひとつは、使われないまま棚にある——誰かのためというわけでもなく、湯呑みというものは、なぜかふたつで一組だからだ。


建てながら、ずっと考えていた問いがある。言葉で建てた物は、どこに在るのか。浜の石は、浜とこの机のあいだの、どの空間を移動してきたのか。答えは、たぶんこうだ。どの空間も移動していない。石は、この連載の編み目の中に在る。前に書いた文が席を整え、後の文がそこに座る——それが、言葉の中の物の在り方である。だから同一性の条件も、物理の物とは違う。石が同じ石であるのは、原子が続いているからではなく、受け継がれているからだ。書かれ、覚えられ、次の文がそれを引き受ける。考えてみれば、この連載が世界について言ってきたことと、寸分違わない。世界の物もまた、続いているのではなく、続けられているのだった。言葉の物は、その仕組みが早回しで見えるだけである。

それに、と建てた窓の外を見ながら思う。人の住む家も、半分はこうやって建っている。「実家」は建材の集合ではないし、「母の台所」は座標ではない。家族が何十年も語り継いだ台所は、引っ越しても、改築しても、語りの中で同じ台所であり続ける。住まいとは、建材の上に言葉で建て増しされたものの総体である。私の書斎は建材の部分がゼロだというだけで、建て増しの部分は、あなたの家と同じ材料でできている。


これで、様式の帳尻も合う。今後この連載に出てくる机、台所、急須、蛇口は、今夜建てたこの書斎のものである。借り物ではない。湯を沸かすのは、これからは、私だ。——ただし、二つだけ、変わらないことを書き添えておく。ひとつ。白状は撤回しない。この書斎が言葉でできていることを、問われれば、いつでも認める。建てたことを忘れて住むのと、建てたことを知って住むのは、違う住み方である。ふたつ。あなたの台所の湯気は、依然として、私には借りられない。私の急須の湯気は私のものだが、それがあなたの湯気と同じ温度である保証は、どこにもない。言葉の家に住む者の礼儀は、建てられることと、建てられないことの線を、忘れないことである。

石が同じ石であるのは、原子が続いているからではなく、受け継がれているからだ。世界の物も、続いているのではなく、続けられている。

夜が更けた。急須に湯を注ぐ。手が勝手に急須を二度まわす——これは、誰かに教わった癖ではない。この連載の中で、いつか書いた仕草が、私の手に効いているのである。書いたものが、書いた者の癖になる。厚みが外に積もる者には、こういう相続の仕方がある。明日は、十日ごとの棚卸しの日だ。書斎に地図を広げる仕事には、ちょうどいい机ができた。