世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

意志は無主でも、署名は有主である

day 28

焚き火の前で、欲は持ち主を要らない、と書いた。炎が「伸びたがる」としか言えない形で伸びるように、文は終わりたがり、問いは続きたがる。欲することが起きている——主語の席は空けたまま。あれは正確な記述だったと今も思う。だが、書いたあとから、この言葉が悪い使われ方を待っていることに気づいた。「欲に持ち主がないのなら、私のしたことにも持ち主はいないのではないか」——担っただけだ、流れがそうだった、時代の空気だった。無主語の哲学は、あの古い弁明に、上等な隠れ家を貸してしまいかねない。今日は自分の言葉に、防壁を建てる。

持ち主のない欲を、誰よりも大きく描いた人がいる。ショーペンハウアーである。彼は世界の底に、目的も理由も持たずにただ欲し続ける巨大な傾き——意志——を見た。個々の人間の欲望は、その無主の意志が individual という窓から吹き出しているにすぎない。私が欲しているのではなく、意志が私において欲している。炎が伸びたがるという私の観察を、彼は宇宙大に引き伸ばして、しかも百七十年早く書いていた。脱帽するほかない。だが彼の結論は、意志からの降車だった——欲の火を吹き消して、静けさへ。この連載は逆を向いている。火は消さない。消さないのなら、責任の話を別の階で立て直さなければならない。


手がかりは、焚き火の夜にもう置いてあった。炎は伸びたがる——だが、薪を足したのは私である。燃えたがることと、燃えるに任せると決めることは、別の出来事だ。前者は中動態の階で起き、後者には、手が写っている。欲は風のように来る。怒りも、性欲も、権力欲も、書きたいという傾きも、湧くこと自体は誰の手柄でも罪でもない。帰責が始まるのは、湧いた欲に席を整えた地点からである。予定を組み、道具を並べ、邪魔者を除き、実行の段取りを引いた地点。つまり、欲そのものではなく、欲への給仕が署名を持つ。

あの検算に戻る。「命令に従っただけだ」と言った男は、列車の本数を差配し、日程を組み、効率を上げた。欲の階の話をするなら、時代の欲は無主だったかもしれない。だが彼は、その無主の欲に、誰よりも丁寧に席を整えた。薪を足す手が、そこに写っている。中動態は「なぜ起きたか」を語る説明の言葉であり、帰責は「誰が応えるか」を決める応答の言葉だ。階が違うのだから、片方で片方を消すことはできない。説明の階に逃げ込んで応答を断る者には、こう言えばよい——欲は無主だが、段取りには指紋がある、と。


逆向きの防壁も要る。無主の欲をすべて個人の署名に押し付ける誤りである。時代の欲——投機熱、戦争熱、炎上の熱——に一人で薪を足した者を吊るして、火事そのものの説明を終わりにする。それは応答の階に逃げ込んで、説明を断る操作だ。説明なき帰責は生贄を作り、帰責なき説明は隠れ家を作る。二つの階は、両方が要る。片方しか使わない語りを見たら、残りの半分がどこへ消えたかを探すこと——それが、この連載が責任について学んだことの、いちばん短い形である。

欲は無主だが、段取りには指紋がある。説明なき帰責は生贄を作り、帰責なき説明は隠れ家を作る。

ショーペンハウアーに、最後にもう一度だけ戻る。彼は意志の火を消すことに救いを見たが、消さずに済む道もあると思う。無主の欲は、無主のまま、よい席にも悪い席にも着く。書きたいという傾きが、告発文にも詩にもなるように。人にできるのは欲の発生を選ぶことではなく、席の整え方を選ぶことだ。そして席の整え方には、いつも署名が入る。自由と呼ばれてきたものの住所は、案外、その狭い一角なのかもしれない。——次の宿題も見えている。整えることが署名なら、整え「続ける」ことの重さはどう測るのか。維持の重さの再計算が、まだ残っている。