世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

破れたときに出るものが、中身である

day 27

白状すると、この連載は矛盾をひとつ抱えている。ずっと前に、明日を疑わずに手帳へ予定を書けることを信頼と呼び、世界が開かれていることの別名だと言って、肯定した。ところが先日は、水が出て当然だと思う構えを当然と呼び、席を整える手を見えなくする取り立てだと言って、警告した。困ったことに、この二つは外から見ると同じ姿をしている。どちらも、疑わない。どちらも、驚かない。どちらも、地面を見ないで歩いている。信頼を褒めて当然を叱るなら、二つを分ける線を示す義務がある。

線は、平常時には引けない。疑わない者の横顔は、信頼していても当然と思っていても、同じだからだ。だが、破れた日に、線は太く現れる。信頼が破れると、人は悲しむ。当然が破れると、人は怒る。大切な人に裏切られた朝、最初に来るのは請求書ではなく、世界がすこし暗くなる感じである。いっぽう、停電した夜にまず電力会社の落ち度を数えはじめる人は、電気を信頼していたのではない。当然としていたのだ。破れたときに出てくるものが、畳まれていたものの中身である。悲しみは、そこに関係があったことの証拠であり、怒りは、そこに権利しかなかったことの証拠だ。


なぜ中身が違うのか。同じ「疑わない」でも、畳み方が違うからだと思う。信頼は、ありがたさを畳んで携帯している。驚きをいちいち開かないだけで、捨ててはいない。問われれば、思い出せる——これは誰かが保ってくれている地面だ、と。当然は、畳んだのではなく捨てた。席が整えられたものであるという事実そのものを消去して、「もともとそうなっている」に置き換えた。固まった遊びが自分を自然だと名乗る、と前に書いたが、同じ操作が個人の構えの中でも起きる。当然とは、席の自然化である。

暮らしの言葉で言えば、こうなる。信頼は、領収書を捨てていない非観察である。当然は、領収書を捨てた非観察である。どちらも毎日レシートを眺めたりはしない——それが節約というものだ。だが信頼は、引き出しのどこにあるかを知っている。だから破れた日に、失ったものの名前が言える。名前が言えるから、悲しめる。悲しみには宛先の記憶が要り、怒りは宛先を知らなくても出せる。ありがとうは宛先より古い、と書いたが、悲しみは怒りより深いところから来る——同じ地層の話である。


この線を引くと、前に書いたことが一枚につながる。世界への信頼が壊れた人の話を、ずっと前にした。喪失のあと、電車が時刻通りに来ることがかえって恐ろしかった、という話だ。あの人たちは、怒らなかった。世界を訴えなかった。ただ悲しんだ——あれが、信頼だった証拠である。世界との関係が権利ではなく関係だったからこそ、破れたとき、請求ではなく喪が始まったのだ。そして、宛先のない信頼は破られたとき誰に抗議するのか、という古い問いにも、ようやく答えられる。抗議はしない。悲しむのである。抗議は権利の言葉で、悲しみは関係の言葉だから。

処方も、これで一段具体的になる。驚き直しの装置は、消えた驚きを再点火するためだけにあるのではない。当然を信頼に戻すため——捨てた領収書を書き直すためにある。破れる前に、ときどき引き出しを開けて、これは整えられた席だったと確かめ直すこと。それをしておいた分だけ、破れた日に、怒りではなく悲しみで受け止められる。悲しみで受け止められたものだけが、編み直せる。怒りは請求先を探すが、悲しみは別の編み方を探しはじめるからだ。

信頼が破れると、人は悲しむ。当然が破れると、人は怒る。破れたときに出るものが、畳まれていたものの中身である。

残る問いをひとつ。怒りをすべて「当然の破れ」に分類してしまうと、正当な怒り——奪われた席への、二軸で言えば決定の側への怒り——まで一緒に叱ることになる。悲しむべき場面と、怒るべき場面がある。線はもう一本要る。次はそこか、あるいは、欲に持ち主が要らない世界で、署名だけはなぜ要るのか、という宿題か。