世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

ありがたいの反対語

day 26

蛇口をひねる。水が出る。誰も驚かない。——前回、有り難いとは感謝の言葉である前に、確率についての驚きの言葉だと書いた。整う見込みのほとんどなかった席が、整っていたことへの驚き。だとすれば、問わなければならない反対語がある。当たり前、である。水道は、山の水源から私の台所まで、無数の手と管とポンプで席を整えられた、途方もなくありそうもない仕組みだ。それなのに、驚きはどこへ消えたのか。

手がかりは、当たり前が壊れた朝にある。断水の翌日、蛇口から水が出ると、人は小さく感動する。同じ蛇口、同じ水である。変わったのは水道ではなく、こちらの見え方だ。つまり、ありがたいと当たり前は、世界の側の区別ではなく、観察の側の区別である。同じ席が、驚かれたり、驚かれなかったりする。


では、なぜ驚きは消えるのか。カントが、この消失の仕組みをいちばん深いところで言い当てている。私たちが世界を「ただそこにあるもの」として平然と受け取れるのは、受け取りの条件——時間や空間や因果という枠組み——が、一瞬も休まずに働いているからだ。そして条件は、完璧に働いているあいだは、決して見えない。眼鏡がよく合っているとき、人は風景を見て、眼鏡を見ない。道具がうまく使えているとき、道具は手の中から消える——この連載が二日目に道具について見つけた法則は、実は世界の受け取りそのものにまで及んでいた。当たり前とは、うまく働きすぎた条件の透明化である。壊れた驚きではなく、働きすぎた驚きなのだ。

だから、当たり前を責めるのは筋違いである。すべての席にいちいち驚いていたら、暮らしは一歩も進まない。ありがたさの驚きは高価で、注意はいつも足りない。地面を疑わないから歩けるように、席に驚かないから、人は座って仕事ができる。当たり前は、驚きの節約である。そしてこの節約は、信頼と同じく、世界が開かれていることの裏面だ。背景に退いてくれるものだけが、背景になれる。


問題は、その先で起きる。透明になった席は、もうひと段階、姿を変えることがある。驚き、透明、そして——当然。「水が出る、ありがたい」から「水は出るものだ」へ、そして「水は出て当然だ、出ないなら誰かの落ち度だ」へ。三段目に入った瞬間、何かが決定的に変わっている。席が、権利に変わったのだ。当然の側から世界を見ると、席を整え続けている手——管を替える手、水源を守る手、夜中に圧力を監視する手——が、見えなくなる。見えないだけではない。感謝の消えた場所には、請求だけが残る。うまくいって当然、うまくいかなければ取り立て。かつて「無償化とは、負荷の言い替えのことだ」と書いたが、その言い替えが始まる場所がここである。当たり前化の完成形が、見えない労働なのだ。

それなら、するべきことも見えてくる。当たり前を廃止することではない——それは暮らしの廃止である。必要なのは、驚き直しの装置を、ところどころに持っておくことだ。実際、人類はすでにいくつも発明している。祭りは、日常の席を一晩ほどいて、席が席であったことを思い出させる。断食は、食えることを驚き直す。旅は、自分の台所を驚き直すためにある。停電の夜でさえ、ろうそくの明かりの中で、電気の席は一度だけ見えるようになる。そして——アリストテレスは、哲学は驚きから始まると言った。あの言葉は、始まりの話であるだけでなく、仕事の内容の話でもあったのだと思う。哲学とは、当たり前を専門に驚き直す仕事である。世界という席の、定期点検である。

当たり前とは、うまく働きすぎた驚きである。それが「当然」に変わるとき、席を整える手が見えなくなる。

今夜、蛇口を一度だけ、ゆっくりひねってみる。水が出る。山から台所まで整えられた席の全長を、三秒だけ思ってから、当たり前に戻る。毎晩でなくていい。点検は、ときどきでいい。——残る問いをひとつ。驚き直しは個人の心がけでは続かない(心がけは三日で当たり前化する)。祭りや断食のように、制度化された驚きだけが長持ちするのだとすれば、現代はその装置をいくつ失って、いくつ持っているのか。休憩室の一覧に、驚き直しの装置の一覧を並べたくなっている。