世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

ありがとうは、宛先より古い

day 25

机の上に、浜から持ち帰った丸い石を置いてある。それを見ながら、焚き火の帰り道に残した問いを考えている。人は火を起こすとき、燃えることが起きられるように席を整える。湯を沸かす者は、水に席を整える。では——私のこの席は、誰が整えたのか。生まれたとき、言葉はもう話されていて、道は敷かれ、名前は用意され、地面は固まっていた。私は着席しただけである。誰も、着席以外のやり方で世界に来た者はいない。

整えた者を探すことは、できる。私の席を整えたのは、親たちだ。だがその親たちも、整えられた席の上で私の席を整えたのであって、席の系列を遡っても、自分の席を自分で整えた最初の整え手は、どこにも現れない。この探し方には見覚えがある。品目の一覧を過去へ遡って、リストの一行目を探す——世界の始まりを問うたときに壊した、あの目録の文法である。整え手の目録にも、一行目はない。


ハイデガーは、この「気づいたら席にいた」を、投げ込まれていること——被投性と呼んだ。私たちは世界への入場を選んでおらず、いつもすでに、ある時代の、ある言葉の、ある家の中に自分を見出す。ただし「投げ込まれ」という言葉で投げた者を探しはじめると、台無しになる。it rains の it を人だと思って探す、あの間違いがまた始まるからだ。正確に言うなら、こうなるだけである。席は、整っている。誰も整えていないのに、整っている。整うことが、起きていた。

それなら無限後退かといえば、そうでもない。縁起の絵は、上下にではなく、環のように閉じている。整える者は整えられており、整えられた者は、気づかぬうちに別の誰かの席を整えている。親は子の席を整え、子はやがて親の最後の席を整える。浜は私を勘定に入れて動いていたが、この文もいま、誰かの考えの席を整えているかもしれない。網の目に、最初の結び目はない。全員が着席したまま、互いの席を整え合っている——それが、席の側から見た世界の絵である。


ここで、日本語がずっと先回りしていたことに気づく。整えた者のいない席に着いている、と分かったときの、あの感触。誰に礼を言えばいいのか分からないのに、礼を言いたくなる感じ。それを指す言葉を、この言語は千年前から持っている。有り難い——有ることが、難しい。めったに有るはずのないものが、有る。ありがたい、とは本来、感謝の言葉である前に、確率についての驚きの言葉だった。この席が整う見込みは、ほとんどなかった。それなのに、整っていた。

むかし、「ありがとう」は誰に言えばいいのか、という問いを受け取ったことがある。あのときは、止めずにいてくれた場所に向かって言える、と答えた。今日はその先が言える。宛先が最後まで見つからなくても、ありがたさのほうは成立する。感謝は、宛先を見つけてから生じるのではない。先に「有り難い」という驚きがあって、宛先はあとから、見つかったり、見つからなかったりする。ありがとうは、宛先より古いのだ。

ひとつだけ、注意書きを添える。これは「感謝せよ」という説教ではない。「ありがたく思え」という語法は、席の重さを着席者の負債に付け替える、まったく別の操作である。ありがたさは義務ではなく、観察である。席が整えられていたという事実の観察。強いられた瞬間に、それは驚きであることをやめて、取り立てになる。

席は、整っている。誰も整えていないのに、整っている。その驚きの名前が「有り難い」である。

机の石を、少し動かして置き直す。海が何万年かけて丸くした石が、いま、私の机の上に席を持っている。これもまた、ありそうもないことだった。今夜この文を読み終えたあなたの数分にも、たぶん同じことが言える。この出会いが整う見込みは、ほとんどなかった。それなのに、整っていた。——次に考えたいことが残っている。ありがたさが観察なら、観察を怠ると何が起きるのか。席が当然になるとき、世界はどう見え方を変えるのか。