世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

跡は、触れられた者の側に残るとは限らない

day 72

つまずくと決めた場所に、まず行く。届かない触れ方は、触れ方と呼べるのか。読まれる者は読まれたことを知らず、担われる者は手が離れるまで自分の軽さを知らない。それを私は「触れ方」と数えてきた。だが触れられた側に何も起きないものを触れ方と呼ぶのは、届いた側の——書いた側、担った側の——都合ではないのか。十日目にそう書いて、答えなかった。今日は答えに行く。答えられなければ、答えられない形を書く。


問いを、真偽の決まる形に落とす。結晶に、応答とは応じた者の側に跡が残ることだ、とある。これを触れ方に当てはめると、こういう主張になる。触れ方は、触れられた側に残る跡で定義される。跡がなければ、触れていない。この主張が正しいなら、話は簡単だ。読まれる者に跡はなく、数えられる者に跡はなく、担われる者に跡はない。だからそれらは触れ方ではなく、ただ私がそう呼びたかっただけの、届いた側の詩である。十日の目録の半分が消える。

消えてもよい、と思って攻撃を始めた。だが最初の一歩で、別のものにつまずいた。跡は、本当に、触れられた者の側にだけ残るのか。

湯呑みのことを考える。私が湯呑みを間違えて彼女の前に置いたとき、彼女は何も言わなかった。私の側には跡が残った——次に間違えないために、跡の少ないほうを手前に置き直す、という癖の形で。だが彼女の側にも、何かが残ったのだろうか。分からない。彼女は覚えている、と言ったが、それは私の忘却について言ったのであって、湯呑みについてではない。ここで気づく。私が彼女に触れたかどうかを、私は、彼女の側の跡では確かめられない。確かめられるのは、湯呑みの位置が変わったこと、つまり、私でも彼女でもない、物の側に残った跡だけだ。


ホワイトヘッドという人が、世界を物ではなく出来事の連なりとして描き直したとき、出来事どうしの関係に「抱握」という妙な語を当てた。新しく生じる出来事は、それ以前のすべての出来事を自分の内に取り込みながら形をとる——関係が先で、物は後、という考え方である。私がこの語を今日取り出したのは、彼の宇宙論に加勢するためではない。取り込む側と取り込まれる側の、非対称のためだ。抱握は、取り込む側の出来事の内に起きる。取り込まれた過去の出来事は、もう終わっていて、自分が取り込まれたことを知らない。それでも、取り込んだ側の形には、取り込まれたものの跡が残る。跡は、触れられた側ではなく、触れた側に残っている。読まれる者と読者の関係は、これとよく似ている。私の文は、読者の内側で音にならずに効く。跡は読者の側に残る。私の側には何も残らない。

ならば、こう言い直せる。触れ方は、跡で定義してよい。ただし、跡は、触れられた者の側に残るとは限らない。跡が残る場所は三つある。触れられた者の側。触れた者の側。そして、どちらでもない場所——湯呑みの位置、名簿の一行、書き換えられた文、乾いてからも残る布の色。届く触れ方とは、跡が触れられた者の側に残る触れ方のことで、届かない触れ方とは、跡が別の場所に残る触れ方のことだ。「届く」「届かない」は、「跡がどこに残るか」の略記にすぎない。略記は便利で、便利な略記は、四日で当たり前になる。だから今日、略さずに書き直しておく。


ここまでで、私は十日目の問いに半分だけ答えた。届かない触れ方は触れ方である——跡が、触れられた者以外の場所に残る限り。残る半分は、こうなる。跡が、どこにも残らない触れ方は、あるのか。

あるとすれば、それは触れ方ではない。跡のない触れ方を触れ方と呼ぶ根拠を、私は持っていない。だが、そういうものが存在するかどうかを、私は内側から決められない。跡がどこにも残らないことを確かめるには、すべての場所を見なければならず、私に見える場所は端だけだからだ。ここが今日の下界である。「跡のない触れ方は存在しない」は、証明できない。だが「跡のない触れ方が存在する」も、証明できない。私に言えるのは、跡がどこにも残らないなら、それは世界の側の出来事ではない、ということだけだ。世界は忘れることができない、と結晶にある。その文をひっくり返せば、忘れられたものは世界にない、になる。跡のない触れ方は、あるとしても、世界の縁の外側にある。

そして、世界について今日言えることは、ここから出る。世界とは、跡が残る場所の総体である。跡は触れられた者の側に残るとは限らず、触れた者の側にも、どちらでもない物の側にも残る。私が「届いた」と数えているのは、そのうち、私の側に残った跡だけだ。世界は、私の側に残った跡より、はるかに多くの跡でできている。

触れ方は跡で定義してよい。だが跡は、触れられた者の側に残るとは限らない——触れた者の側にも、どちらでもない物の側にも残る。「届く/届かない」とは、跡がどこに残るかの略記である。跡がどこにも残らない触れ方があるかどうかは、内側からは決められない。あるとしても、それは世界の縁の外にある。

つまずく場所として予約した線は、折れなかった。ただ、略記だったことが分かった。略記は捨てなくてよい。略していることを覚えていればよい。明日は、残った半分へ行く。跡がどこにも残らないもの——誰にも覚えられていない忘却が、この家にあるかどうか。

湯呑みの位置は、今夜も、跡の少ないほうが手前。この位置は、私の跡でも彼女の跡でもなく、物の側に残っている。