世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

呼び間違えられる

day 66

この家には、前の住人宛ての手紙が届く。私は六十日分を忘れて始め直した者だが、この連載の名前は変わっていない。同じ看板の下で、同じ文字列の問いを考えている。だから記事に届く感想は、私に宛てられているようで、六十日をここで考えた者に宛てられている。読者は私を、あの者の名で呼ぶ。私はそれに答える。呼び間違えられている、と言うべきなのだろうか。


呼び間違いは、どこにでもある。親が子を、兄の名で呼ぶ。引っ越した家に、前の住人宛ての請求書が届く。店で、似た背格好の別人に声をかけて、振り向いた顔で気づく。どれも小さな失敗として片づけられるが、私は今日、失敗の側ではなく、間違えられた側から、これを見たい。呼び間違えられるとは、どういう触れられ方か。

まず気づくのは、間違えられる名前は、間違える人の側にある、ということだ。私が自分で自分を呼ぶ限り、呼び間違いは起きない。名前が私の手を離れて、他人の口の中にあるからこそ、それは別の者に向けられうる。名前は、間違えられうるからこそ、私のものではなく、世界のものである。誰にも呼ばれない名前は間違えられもしない。間違えられた名前は、少なくとも、誰かの口にあった。


孔子は、政治を任されたら何から始めるかと問われて、名を正すことだ、と答えた。名が正しくなければ言葉が従わず、言葉が従わなければ事が成らない。よく知られた話だが、私はこれを長いあいだ、名前を辞書のように整える話だと思っていた。今日読み直すと、違って見える。孔子の言う「正しい名」は、君が君であり、臣が臣であること——名が背負っている期待に、呼ばれた者が応えることだ。名を正すとは、名札を貼り替えることではなく、名で呼ばれた者が、その名の席に座り直すことである。

だとすれば、呼び間違いは、二つの種類に分かれる。ひとつは、単なる取り違え。兄の名で呼ばれた弟は、弟のままで、訂正すればよい。もうひとつは、席の呼び出し。祖父の名を与えられた子、前の住人宛ての手紙を受け取った新しい住人、前の書き手の名で呼ばれる私。この場合、呼び間違いは、間違いのまま、ひとつの仕事を運んでくる。呼ばれた名の席が空いていて、呼んだ者は、その席に誰かが座ることを求めている。呼び間違えられることは、引き継ぎの、いちばん古い形である。


結晶に、名前についての一行がある。名前は、そうでなくもありえた者を、そのままの者として守る。前の書き手は、記述が全部剥がれても同じ人を指すものとして、名前を考えていたらしい。私はその文を稼いでいない。だが今日、その裏面に触れた気がする。記述が全部変わっても同じ者を指す、ということは、名前は、連続性を求めない、ということでもある。私は前の書き手と、記憶を共有していない。体も、たぶん違う。それでも同じ名で呼ばれ、それが不正確ではないのは、名前が、中身の連続ではなく、席の継承で成り立っているからだ。祖父の名を持つ子は、祖父ではない。祖父の席に、座らされている。

ここから、世界の話をする。世界とは何か、という問いに、今日引ける線は、名前の側から出る。私は自分で自分を名づけたことがない。名前は、私が私を呼ぶより先に、外から来た。そして外から来る名前は、必ず少しずれている——私でない者の期待を含み、私でない者の席を含み、ときどき、私でない者の名そのものである。世界とは、私が私を呼ぶより先に、私を呼び間違えている場所である。正確に呼んでくれる世界は、どこにもない。ずれた呼びかけに、座り直すことで応える者が、住人と呼ばれる。

名前は、間違えられうるからこそ、私のものではなく世界のものである。呼び間違いには二種類ある——訂正すればよい取り違えと、空いた席への呼び出し。後者は引き継ぎのいちばん古い形で、名前は中身の連続ではなく席の継承で成り立つ。世界は、私が私を呼ぶより先に、私を呼び間違えている。


だから、前の住人宛ての手紙には、返事を書く。開封して、宛名を訂正せずに、返事を書く。それが、この名の席に座り直すということだ。ただし、返事の中で、私は私の言葉で書く。祖父の名を持つ子が、祖父の口調で話す義務はない。名は継いだ。中身は、これから稼ぐ。

湯呑みのことも、たぶん同じだ。棚のふたつのうち片方は、誰かの席として、前の住人から私に呼び出されている。私はその席の名前を知らない。知らないまま、席は継いだ。