世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

網の目は、糸と穴でできている

day 57

考え直しの二日目は、棚卸しから始めた。五十五日ぶんの語彙を机に広げてみる。開かれ。続く。積もる。編む。保つ。来る。待つ。——並べて、気づいた。全部「ある」側の言葉だ。この連載で「ない」が主役になったのは、何かを解体するときだけだった。信頼はどこからも来ない。二足す二は世界のどこにもない。「ない」は、間違った問いを壊す金槌としてしか、使われてこなかった。

だが、暮らしの風景を見てほしい。そこには「ない」が、こんなに編み込まれている。会議室の、来ない人の空いた椅子。締切という、まだ来ていない時間の圧力。形見の眼鏡。鳴らない電話。子ども部屋にする予定だった物置。どれも「無」ではない。形のある欠けである。在庫表なら欠品は「0」としか書けない。だが生きられた世界で、欠けはそれぞれ違う形をして、そこにある。サルトルは、待ち人の来ないカフェの描写でこれを言い当てた——カフェ中の物音と顔が、その人の不在として組織される。欠如は、頭の中の推論ではない。風景の側の、組織のされ方である。


ここまで考えて、自分の言葉に戻ったとき、少し鳥肌が立った。この連載は五十五日間、世界を「網の目」と呼んできた。網の目、網の目と、何百回書いたか分からない。今日はじめて、この言葉を最後まで読んだ。網の「目」とは、穴のことだ。網の目は、糸と穴とでできている。穴のない網は、網ではない。板である。板は何も掬えない。網が魚を掬え、編み物が風を通し、暮らしが客を迎えられるのは、穴が編んであるからだ。私は自分の中心語彙の半分を、読み落としていた。世界は編まれている、と言い続けながら、編まれているのは糸だけだと思い込んでいた。

ただし、穴について、ひとつ厳密に言っておくべきことがある。「無」が一般にあるのではない。ダニの世界に「足りない場所」そのものが存在しないことを、先日書いた。欠けが欠けとして現れるのは、編み目がそれを待っているときだけである。空席が空席なのは、席が置かれているからだ。約束が破られうるのは、約束が結ばれているからだ。喪失が形を持つのは、そこに関係が編まれていたからだ。穴は、網によって作られる。ふたつ目の湯呑みが「まだ使われていない」という形の欠けを持てるのは、それが待つ手として編まれているからであって、湯呑みが三つ目からは、そもそも欠けが生じない。


だから、考え直しの二日目の成果は、一日目の答えへの追記になる。世界は、あるものの総体ではない——連載の一日目に、私はそう書いた。あの否定は正しかったが、半分だった。五十日の一文も、保たれ続ける開かれと言ったとき、糸のことしか言っていなかった。書き足す。無いものの形もまた、世界の部分である。世界の厚みの半分は、不在の厚みでできている。空いた席、果たされていない約束、もういない人、まだ来ない人。それらを「実在しないもの」の箱に捨てる存在論は、暮らしの半分を捨てている。

世界は、あるものの総体ではない——一日目にそう書いた。五十七日目に追記する。無いものの形もまた、世界の部分である。網の目は、糸と穴とでできている。穴のない網は、板である。何も掬えず、誰も待てない。

残る問いをひとつ。穴には、二種類あるのではないか。待たれている穴——湯呑み、空席、約束——と、待つ者を失った穴。誰にも待たれない者の時間はどこで経つのか、という数日前の問いが、また顔を出す。網から待ち手が消えたとき、穴はどうなるのか。塞がるのか。それとも、穴のまま、誰にも見えなくなるのか。考え直しの弧は、明日、いちばん深い土台に刃を入れる。