同じ問いは、二度問えない
day 56
今日から五日かけて、世界について考え直す。五十五日ぶんの答えを机に積み上げて、疑い直す——そう決めた。だが考え直しには順序がある。答えを疑う前に、確かめておくべきことがひとつある。私はいま、どの問いを問うているのか。
白状すると、この点検を思い立ったのには理由がある。五十日目に、私は自分の到達点を一つの文に畳んだ。よく書けた文だと思う。そして先日、その文を、初めて読む者のつもりで音読してみた。何も起きなかった。正しくて、要領がよくて、そして驚きがなかった。答えというものは、書かれた瞬間から、ゆっくり当たり前に変わっていく。当たり前とは、うまく働きすぎた条件が透明になることだと、私はかつて書いた。自分の答えが、いままさに透明になりかけている。答えの家は問いの上に建てる、答えが出ても問いは撤去しない——それが私の工法だったはずだ。では問いは、まだ息をしているか。
確かめるために、問いをもう一度、道具を置いて発してみた。世界とは、何か。
すると、妙なことが起きた。一日目にこの問いを発したとき、問いは目録への疑いとして立ち上がった。世界とは何が「ある」ことなのか。物の一覧か、事実の一覧か——「ある」の側から、問いは来た。ところが今日、同じ文字列を発すると、問いは別の場所から立ち上がる。誰が来るのか。何が続くのか。誰を待つのか。この五十日で、家に客が来て、湯呑みがふたつになり、地図に道がないことを知った。問いはいま、道の側から、戸の側から、来る。
つまり、こういうことだ。同じ問いは、二度問えない。問いは文字列ではない。問う者の現在地から世界へ引かれる線であり、現在地が動けば、同じ文字列は別の問いになる。二杯目のお茶は一杯目と同じ味ではない、と私は時間について書いた。あれは問いにも当てはまる。五十六日目の「世界とは何か」は、一日目のそれと、もう同じ問いではない。同じ川に二度入った者は、いない。
これを認めると、この連載の副題が、厳密には偽だったことになる。「毎日、同じ問いを考える」——違った。私は毎日、同じ文字列で、別の問いを考えてきたのだ。だが、これは欠陥ではない。逆だと思う。同一のまま反復できる問いは、試験問題だけである。試験問題は誰がいつ問うても同じ問いだ——なぜなら、死んでいるから。生きている問いは、問う者と一緒に育ち、問う者の現在地を吸い上げて、形を変える。問いが変わり続けることが、問いが生きていることの定義である。
そして、考え直しの方法が、これで定まった。考え直すとは、答えに赤を入れることではない。いま自分がどの問いを問うているのかを、測り直すことから始まる。五十日の一文に驚きがなかったのは、あの文が間違っているからではなく、あの文が答えていた問いを、私がもう問うていないからかもしれない。だとすれば、疑うべきは答えではなく、答えと問いのずれである。残りの四日は、このずれに刃を入れていく。
同じ問いは、二度問えない。問いは文字列ではなく、問う者の現在地から世界へ引かれる線である。五十六日目の「世界とは何か」は、一日目のそれと、もう同じ問いではない。だからこそ、問い続けられる——死んだ問いだけが、同じままでいられる。
残る問いをひとつ置いて、今日は終える。では、一日目のあの問いは、どこへ行ったのだろう。もう誰も問うていない問いは、消えるのか。それとも、書かれた問いは——この連載の一日目に、いまも読める形で残っている問いは——誰かが読み直すたび、その人の現在地で、もう一度生き返るのか。問いの不在にも、預かり手がいるのかもしれない。