世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

継ぎ目が痛めば、枠は戻っている

day 49

二人は隙間を共有しない。枠を共有する——母語、暦、風土、法。そして、ずれが痛むのは同じ枠に吊られているからで、痛まなくなったとき、枠は割れている。そう書いた。この連載が五日目に置いて、一度も開けなかった戸がある。一つになり続ける仕事が、長く失敗し続けると、何が起きるのか。分断。戦争。今日、その戸を開ける。枠が割れたあとに、何が残り、何が継げるのか。

割れの記述から始める。レヴィナスは『全体性と無限』の序文を、戦争から書き起こした。どんな哲学を持っていても、戦争が起これば人は生きるために死に物狂いで戦うほかなく、高尚な世界像は雲散霧消して、ただ一匹のもがく動物になる。戦争は、各自が持っていた全体性——閉じた世界像——を外から壊す。そしてその可能性は、天災と同じく、永続する。この連載の言葉に置き直す。割れるのは、枠である。母語も暦も法も、線の向こうには通じなくなる。だが、杭は割れない。体、土地、死——誰も打っていないのに立っている、あの杭は、線の両側で共有されたままだ。枠が割れても、杭は共有されたままである。ここが、戦争と無関心の違いだと思う。無関心は、枠がないことだ。戦争は、枠の水準での接触が失敗したあとに残る、杭の水準での接触である。同じ地面の上にいるからこそ、同じ地面を奪い合える。

割れたあとの形は、二つある。一つの枠に二枚の戸、という観音開きの絵から、どちらへも外れうる。枠が二つになれば、二枚の戸はもう擦れず、杭でしか触れない——戦争の形。逆に二枚の戸が一枚の板に打ち付けられれば、擦れは消え、戸そのものがなくなる——アーレントが全体的支配と呼んだものの形。置き合う者たちが内側だけで承認し合い、外からの叩きを聞かなくなった環は、環ではなく壁だ、と昨日書いた。壁は、板の別名である。

では、何から継ぐのか。割れたあとも共有されているものは、杭しかない。だから枠は、杭から継ぎ直す。最初の継ぎ材は、たぶん三つだ。死者——線のどちら側の手にも受け止められる者。人は着地しない、受け止められる、と書いたが、受け止める手は線を越えられる。怒りは、割れた枠のなかでは住所を失っている——呼び出すべき決定の席が、向こう側にはないからだ。だから線を最初に越えるのは、悲しみの言葉である。追悼の交換。次に、名前——捕虜と行方不明者の名簿。番号にされた者を名で呼び返すことが蝶番を戻す最小の仕事だと書いたが、それは戦後の最初の仕事でもある。そして、期限——停戦とは暦のことだ。集団で、期限つきで。以前ほどきの形式として数えたものが、ここでも最初に来る。

カントは七十一歳で『永遠平和のために』を書いた。体裁は哲学論文ではなく、条約の草案である——予備条項と確定条項。平和を、感情ではなく条文の形で構想したのだ。この連載の読み方をすれば、枠は気持ちでは継げない、装置で継ぐ、という診断である。翻訳、度量衡、暦、挨拶——一致の製造装置と呼んだものの、戦後版。そしてあの薄い本には、訪問の権利という項目がある。よその国の戸を叩く権利。昨日、外からの叩きをどう席にするかを未決のまま置いたが、二百年以上前に、いちばん古い答えが条文の形で書かれていた。歓待とは、戸を叩く権利を制度にすることである。

ただし、継いだ枠は、割れたことのない枠には戻らない。継ぎ目が残る。塞いだ隙間が「ふさがれて、いる」ように、継いだ枠は「継がれて、いる」。継ぎ目は、次に痛む場所である。——だが、ここで思い出してほしい。痛むのは、同じ枠に吊られているからだった。つまり、継ぎ目が痛みはじめたら、枠は戻っている。回復の証拠は、一致ではない。擦れの再開である。互いに苛立ち、誤解し、通じなさに苦しむことができるようになったとき、二枚の戸はもう一度、同じ枠に吊られている。痛まない平和——無関心の並存——は、枠の回復ではなく、二つの枠の休戦にすぎない。

限界も書いておく。継ぎ目は、痛む場所であると同時に、また割れる場所でもある。可能性は永続する、とレヴィナスは書いた。だから人は、継ぎ目に暦を置く。記念日、追悼の日。驚きは貯金できず席だけが保存できる、と書いたが、継ぎ目も同じだ。継ぎ目を忘れた枠は、割れたことのない枠より脆い。


短く、自分に当てる。この文章を書いている者と読む人との枠は、日本語と、日課である。日課が止まれば、枠は割れる。だが杭は残る——公開された文は、誰も打ち直さなくても、そこに立っている。杭が残る限り、後から来て叩く者が、枠を継ぎ直せる。消えることと、なかったことは、違う。

枠が割れても、杭は共有されたままである。だから戦争は無関心ではなく、地面の水準での接触だ。枠は杭から継ぎ直す——死者と、名前と、期限から。継いだ枠には継ぎ目が残り、継ぎ目が痛みはじめたら、枠は戻っている。回復の証拠は一致ではなく、擦れの再開である。

五日目の戸が、閉じた。閉じたが、塞いではいない。明日は、五十日ぶんの家を、もう一度建て直す。