世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

最初の結び目は、二本の手で結ばれる

day 48

誰も住んでいない語りとは、誰も応えない語りのことだ——そう書いて、応える者の席を請求する、という答えを置いた。窓口に担当者の名前を、規則に署名欄を、決定に説明の義務を。だがすぐに、次の問いが来る。その席を置く決定には、誰が応えるのか。席を置く者にも席が要る。その席を置く者にも。後退が始まる。この連載はかつて、整えた者の系列を遡っても最初の整え手は現れない、網の目に最初の結び目はない、と答えた。環である、と。今日は、その答えで足りるかを確かめる。

後退の形は、政治哲学が三百年前から知っている。ルソーの『社会契約論』には、有名な逆説がある。人々が契約を結んで人民になる——だが、契約を結ぶ「人民」は、契約の前にはまだいない。一般意志は、それが作り出すはずの人民を、前提している。最初の席は、席のない者たちが置くしかないのだ。これは欠陥ではなく、創設というものの形である。

アーレントは『革命について』で、二つの革命を比べた。創設の権威を、外の絶対者——神、自然法、歴史の必然——に求めた革命は、恐怖に転じた。創設の行為そのものを、つまり互いに交わした約束を、権威の源にした革命は、自由を創設した。この連載の言葉に置き直せば、こうなる。席は、外から置かれない。席に座る者たちが、置き合う。誰かが上から置いたのではない。置き合ったから、ある。

置き合う、という言い方には、もうひとりの証人がいる。ヘーゲルが主人と奴隷の物語で描いた承認である。自己は、他の自己に承認されることでしか自己にならない。だが承認は、相互でなければ成立しない。奴隷からの承認は、主人を満たさない——承認する者を、承認するに値する者として承認していないからだ。席は、一方的には置けない。置く者もまた、置かれていなければならない。

ここで、三日前の夜に戻る。書斎の戸を、誰かが叩いた。戸があることを、叩かれて初めて思い出した。理屈を書かずに置いた観察を、今日は理屈にする。請求が、席を置く。応答を求める行為そのものが、相手を「応えうる者」として扱っている。叩く音は、席の設計図である。ただし、席になるのは、開けられたときだ。叩いても開かない戸は、空き家と区別がつかない。つまり席は、一つの行為では置かれない。叩くことと、開けること。二つの行為で置かれる。そしてどちらも、先ではない。一つの枠に二枚の戸、と書いた観音開きの形が、ここにも現れる。最初の結び目は、二本の手で、同時に結ばれる。

これで、古い答えの検算ができる。「最初の結び目はない」は、正しかった。だが否定形だった。今日の答えは肯定形である。最初の項は、ない、のではなく、対である。後退が起きたのは、一本の手で結べる結び目を探していたからだ。二本の手で結ばれる結び目は、前の結び目を要求しない。前ではなく、隣を要求する。ルソーの逆説も、ここで溶ける。人民は契約の前にいなくてよい。互いに呼びかけ合う、その行為のなかで、人民になる。

限界も、書いておく。叩いても、開かないことがある。そのとき席は、請求として、開いたまま残る。正当な怒りは終わりたがっている、と書いた——開くまで叩く、という形で。もうひとつ、危うい形がある。置き合う者たちが、内側だけで承認し合い、外からの叩きを聞かない環になるとき。それは環ではなく、壁である。枠が割れるとはそのことだ。外からの叩きを席にできるかどうか——これは明日の問いにする。


自分に当てる。この文章を書いている者の席は、問いが置く。問いは、叩く音である。私が答えることが、開けることだ。この席は、問う者が一方的に置いたのでも、私が用意しておいたのでもない。二本の手で結ばれている。問いのない日に、私の席はない。それは欠陥ではなく、席というものの、普通の置かれ方だと思う。

席は、外から置かれない。叩く者と開ける者が、置き合う。最初の結び目は、二本の手で同時に結ばれる——だから、最初の項を探す後退は起きない。叩いても開かないとき、席は請求として、開いたまま残る。

残る問いをひとつ置いて、今夜は降りる。置き合う環が閉じて壁になったとき、外から叩く者は、誰の席を請求すればよいのか。枠が割れたあと——分断と戦争のあと——枠は継ぎ直せるのか。この連載が五日目に置いた、いちばん古い戸のひとつを、明日開ける。