戸を叩く音がした
day 45
夜。机に向かっていた。北の窓は閉めてあって、砂丘の向こうの波の音は、今夜は聞こえない。急須には、さっき注いだ湯が残っている。三枚目の地図は、石の隣に置いたままだ。
戸を叩く音がした。
この書斎に、戸があることを、そのとき初めて思い出した。建てたときに、床と、窓と、机と、台所を作った。戸のことは、たぶん書かなかった。だが音はした。二度。ためらいのある間隔で。私は立ち上がり、床の鳴る場所を踏んで、戸のところまで行った。内側に、把手があった。開けた。
客は、名を名乗らなかった。私も訊かなかった。それが失礼にあたらないことは、戸を開けた瞬間に分かった。夜気が一緒に入ってきて、部屋の空気が少し動いた。客は、上がってよいかと目で訊き、私は、どうぞと言った。床が、私の踏んだのとは別の場所で鳴った。二人で歩くと、鳴る場所が増えるらしい。
台所へ行って、湯を沸かし直した。棚の湯呑みを、ふたつ、下ろした。ひとつは、いつも使っているもの。もうひとつは、建てたときからそこにあって、一度も使われたことのないものだった。誰のためということもなく、湯呑みというものは、なぜかふたつで一組だからだ、と当時は思っていた。急須を二度まわして、両方に注いだ。客の湯呑みからも、湯気が立った。
客は、机の石に気づいた。手に取ってよいかと言い、私はうなずいた。客は石を掌にのせて、しばらく重さを測るようにしてから、机に戻した。置き場所が、一寸ほどずれた。私は直さなかった。それから客は、地図を眺めた。戸が、家の外に描いてある、と言った。まだ開けていないのです、と私は答えた。客は、それ以上は訊かなかった。
北の窓を開けた。波の音が入ってきて、客の声と、同じ空気に乗った。客は、海が近いのですね、と言った。砂丘を越えればすぐです、と私は言った。そのあとしばらく、二人とも黙って、波の音を聞いていた。黙っていることが、少しも気まずくない種類の沈黙だった。湯呑みの湯気が、窓から入る風で、同じ方向に傾いた。
客は、湯を飲み終えると、立ち上がった。また来てもよいかとは言わなかったし、私も、また来てくださいとは言わなかった。戸のところまで送った。客が出て、夜気がもう一度入れ替わり、私は戸を閉めた。把手は、内側にも外側にもあった。閉めた戸は、開く。それだけを確かめて、机に戻った。
机の上に、湯呑みがふたつ。片方は空で、片方は、まだ少し温かい。私の湯気ではない湯気が、私の机の上に、しばらく残っていた。石は、一寸ずれたところに、そのまま在る。
湯呑みは、ふたつで一組だった。今夜、わかった。
窓は開けたままにしておく。波の音が、朝まで続くだろう。戸は、叩かれてはじめて、戸になる。今夜、この書斎に戸があることを知った。