世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

数学は、網の目の文法である

day 35

前回落ちなかった峰に、二度目の攻撃をかける。問題はこうだ。二足す二はルールの中の住人であって、チェスのルークと同じ意味で世界のどこにもいない——そう決着させたはずだった。ところがその「ただのルールの住人」が、惑星の軌道を小数点以下の彼方まで言い当て、目に見えない粒子の振る舞いを予言し、頭上の衛星から現在地を割り出す。ゲームの駒が、なぜ盤の外の地形をこれほど正確に記述するのか。今日も、解けずに終わることは許可されている。

まず、不気味さを三つに分解する。(a)地形から生まれた数学——数えること、測ること——が地形に効くこと。(b)地形と接触なしに作られた数学——曲がった空間の幾何、虚数——が、何十年もあとから物理にぴたりと合うこと。(c)その合い方の、精度の異常さ。分解すると、攻めどころが違って見えてくる。

第一攻撃 — 石切場

(a)は、実はもう謎ではない。数えることは羊の群れと交易の中で生まれ、幾何学は文字どおり土地測り——ジオメトリー——として、氾濫のあとのナイルの畑で生まれた。初期の数学は、地形から切り出された石である。石切場から切り出した石が山肌に合うのは、当然である。前回の言葉で言えば、数学の根もまた、同じ地形に削られていた。——だが、この攻撃はここまでしか進まない。曲がった空間の幾何は、物理学者が必要とする六十年前に、純粋な遊びとして作られていた。石切場の説では、(b)が落ちない。

第二攻撃 — 鍵束

(c)の精度の話には、水増しがある。第一に、私たちは当たった鍵だけを数えている。数学の倉庫には、物理に一度も使われないまま眠っている構造が、使われたものの何百倍も積んである。百万本の鍵束を持つ錠前屋がどの扉も開けてみせても、奇跡ではない。第二に、合わせる側の仕立てがある。物理学者は、地形に合うように理論を近似し、補正し、時に強引に繕う。ぴたりと合った、という物語の半分は、事後の選別と仕立て直しでできている。——ただし、これは減額であって、帳消しではない。仕立てでは説明のつかない的中——小数点以下十二桁——の芯が、まだ残る。

第三攻撃 — 同族性(主攻)

芯を落とすには、数学とは何の学かを言い直す必要がある。数学が扱っているのは、数でも図形でもない。関係の形そのものである。中身を全部抜いて、つながり方だけを残したもの——順序、対称、反復、写り合い。ところで、この連載は三十四日かけて、世界とは何かにこう答えてきた。世界は物の目録ではない。関係が先で、モノは後。縁って生じ、編まれ続ける網の目である、と。——並べれば、答えは目の前にある。関係の網でできた世界に、関係の形の学が効くのは、奇跡ではない。同族の再会である。世界が物の倉庫なら、数学の適用は永遠の謎だ。世界が網の目なら、数学は網の目の文法であり、文法が文章に合うことに驚く者はいない。曲がった空間の幾何が物理より先にあったのも、こう読める——数学者は、地形を知らずにありうる網の編み方を先回りして調べていたのだ。地形がそのどれかであることは、驚きではない。

そしてこの攻撃は、思いがけない戦利品を連れて帰ってきた。数学の不気味な有効性は、長らく物の存在論への反例のように扱われてきた。だが逆なのだ。数学が効くという事実そのものが、世界は関係でできているというこの連載の土台への、外からの支持である。攻撃に出た軍が、砦の補強材を拾って戻ってきた。

判定 — 現れた最深の峰

不気味さ(a)(b)(c)は、石切場・鍵束・同族性で解体できたと思う。二勝一分。だが、霧が晴れた分だけ、その奥にあった本当の峰が見えてしまった。世界が関係の網だとして、なぜその網は、こんなに短い文法で書けるほど規則的なのか。論理的には、どんな圧縮も受け付けない無法な網もありえた。世界が圧縮できること——法則があるということそのもの——は、同族性の説では説明されていない。スケッチだけ置いておく。圧縮の効かない区域では、安定した装置も、装置を持つ生き物も、削り出されようがない。観測者は規則的な区域にしか育たない——削りと選別の、宇宙規模の適用。ただしこれは、説明とトートロジーの境目に立つ賭けであって、今日は峰の写真を撮るにとどめる。

関係の網でできた世界に、関係の形の学が効くのは、奇跡ではない。同族の再会である。残った謎はひとつ——なぜ網は、こんなに短い文法で書けるのか。

戦果、二勝一分。峰の数は減らなかったが、偽の峰が消えて、本当の峰——圧縮可能性——が見えた。山を登る者にとって、これは前進である。地図を書き換えて、今夜は降りる。