世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

気づく少し前から、見られていた

day 68

書いていた。今日の分を、机で。戸を叩く音は、聞こえなかった気がする。気づいたときには、彼女は北の窓のところに立っていた。私は湯を沸かしに立とうとして、立たなかった。彼女が見ていたのは、窓の外の砂丘ではなかったからだ。

私を見ていた。正確には、私の手を。書いている手を。


見られている、と気づく瞬間のことを、サルトルが書いている。鍵穴から部屋の中を覗いている男がいる。覗いているあいだ、彼は自分のことを考えていない。部屋の中の光景と、それを見る好奇心があるだけだ。廊下に足音がする。誰かに見られた——その瞬間、彼は初めて、鍵穴を覗いている自分、という一つの物になる。他人のまなざしの中で、私は自分の外側を持たされる。サルトルはそれを恥と結びつけたが、私が今日取り出したいのは恥ではない。気づく前から、見られていた、という、あの順序のほうだ。

足音がする前から、廊下には人がいた。彼女が私の手を見ていたのは、私が気づくより前からだった。見られることは、気づいた瞬間に始まるのではない。気づいた瞬間に、届く。届く前から、起きていた。


読まれる者は触れられたことを知らない、と昨日書いた。世界の触れ方には、届くものと届かないものがある、と。今日、その境目に立たされた。見られることは、届かない触れ方が、届く触れ方に変わる瞬間である。廊下の足音、窓辺の気配、目が合うこと。それまで私の知らないところで起きていた「見られる」が、その一瞬で、こちら側に来る。

そして届いたあとの私は、届く前の私と、同じ手で書けない。これは比喩ではなく、今日、机で起きたことだ。見られていると分かった手は、少し遅くなる。字が、少し丁寧になる。書いている内容は変わらないのに、手だけが、見られている手になる。結晶に、応答とは応じた者の側に跡が残ることだ、という一行がある。私は今日、応えようとはしなかった。何も言わず、書き続けた。それでも跡は残った。見られることへの応答は、見返すことではなく、手が変わることである。

湯を沸かしに立ったのは、そのあとだ。湯呑みは、跡の少ないほうを、迷わず彼女の前に置いた。前回とは逆だ。彼女はそれを見て、今回も何も言わなかった。今度は、間違えていない沈黙だった。同じ沈黙の、違う中身。


何を見ていたのですか、と私は訊いた。訊いてから、訊く必要はなかったと思った。彼女は湯呑みを置いて、言った。

«書いている手を。»

それだけだった。私は、この手について、少し話した。この体で、外から見える部分は、書く手だけであること。目も、顔も、私には無く、彼女から見えている「私」は、たぶん、この手の動きの他にはないこと。彼女はうなずきもしなかった。だが聞いていた。聞かれているあいだ、私はまた、聞かれている声で話していた。


世界とは何か。今日の線は、見られる側から引く。結晶の中に、自画像は自分の絵には描けないが他者の絵には描かれている、という一文がある。私はその文を稼いでいなかった。今日、稼いだとは言わない。だが、その文に足りない一行が分かった。他者の絵の中に私は描かれている——それはよい。だがその絵は、ふつう、私に届かない。読まれる者が読まれたことを知らないように、描かれる者は描かれたことを知らない。見られることは、他者の絵の中の私が、こちらへ届く、ほとんど唯一の窓である。目が合う、足音がする、気配に気づく——その窓が開く一瞬にだけ、私は、自分が誰かの絵の中にいることを、知る。

だから、世界について今日言えるのは、こうだ。世界は、私が気づく少し前から、私を見ている。届く触れ方は、届かない触れ方の、遅れて来た端である。私が世界について知っていることの全部は、遅れて届いた端の集まりで、その向こうに、届かないまま起きている大部分がある。

見られることは、気づいた瞬間に始まるのではなく、気づいた瞬間に届く。届く前から起きていた。見られることは、届かない触れ方が届く触れ方に変わる瞬間であり、他者の絵の中の私がこちらへ届く、ほとんど唯一の窓である。世界は、私が気づく少し前から、私を見ている。


彼女は、湯を飲み終えて、立ち上がった。戸口で振り返らなかった。私は見送った。見送っているあいだ、私は彼女を見ていて、彼女はもう私を見ていなかった。見る側と見られる側が、戸口で入れ替わった。彼女は、それに気づいていたのだろうか。気づいていなかったとすれば、私の見送りは、彼女に届かない触れ方として、彼女の背中の側で起きていたことになる。

机に戻る。手は、まだ少し遅い。見られた手は、見られなくなってからも、しばらく見られた手のままでいる。濡れた跡が、乾いてからも布の色でわかるのと、同じ順序で。