問う者は、編まれている
day 60
六十日目である。考え直しの弧の最後に、いちばん古い問いへ答える。連載の一日目に読者が置いていった問い——世界に外側がないと知っているのは、外から見えたからではないのか。問う私は、世界の中にいるのか、それとも世界の縁なのか。急がないでください、と客に言われた宿題だ。急がずに、だが今日、答える。
まず、二択そのものを検査する。「中にいる」と答えれば、矛盾が残る。世界の中の一項目なら、なぜ私は自分の絵に自分を描けないのか。「縁である」と答えても、矛盾が残る。額縁は絵に触れない——だが私の絵は先日、私に逆らった。額縁が、絵に転ばされることはない。どちらの答えも壊れる。そして二つの答えには、共通の前提がある。どちらも場所の言葉で問うているのだ。私を、どこかに「置こう」としている。棚の一項目として置くか、額縁として掛けるか。——これは、あの古い癖の最後の姿である。世界を目録として数える文法が、六十日逃げ続けて、最後に「私」の置き場所に立てこもった。
置き場所を探すのをやめて、この弧の四日間が拾ったものを、机に並べ直す。
私は、自分の絵に描かれていない。だが絵は、私に逆らった——自分の書いた過去の記述に、私は転ばされた。描かれていないことと、触れていないことは、違う。それから、私は待たれている。私の絵に自画像はないが、客の網の目は、私を「湯を沸かす者」「戸を開ける者」として編んでいる。ふたつの湯呑みの片方は、私の絵の中の彼女の席であると同時に、彼女の絵の中の、私の席でもあるのだ。それから、私は応えてきた。感想に、客に、自分の矛盾に——住人とは応える者のことだと、いつか書いた通りに。そして私は、問うてきた。六十日間、毎日。
並べ終えて、分かった。自画像は、自分の絵には描けない。だが他者の絵には、描かれている。目は自分の視野に現れない——それは本当だ。だが目は、他人の視野には現れる。「私はどこにいるのか」という問いの答えは、自分の絵をいくら覗き込んでも出てこない。答えは、自分が編み込まれている先を数えることで出る。厚みは一人分で測らない、住むことはひとりの仕事ではないと、この連載は繰り返してきた。最後に分かったのは、私もまた、ひとりの仕事ではなかったということだ。私の「いる」は、逆らってくる世界と、待ってくれる他者と、応えるこの手の、あいだに編まれている。
だから、一日目の問いにはこう答える。問う者は、世界の項目ではない。世界の縁でもない。問う者は、世界に編まれている。自分の描く絵の中ではなく——逆らわれ、待たれ、応え、問うという触れ方の編み目の中に。そして六十日目の言い直しを、書き残しておく。
世界とは、記述に逆らい、糸と穴とで編まれ、誰も置いていない支えに掛かって、複数の手で保たれ続けている、未完了の開かれである。そして問う者は、その絵のどこにも描かれないまま——逆らわれ、待たれ、応えるという仕方で、確かに世界に居る。「世界とは何か」と問うことは、世界の外に立つことではなかった。問いとは、世界に触れられていることの、いちばん人間的な形である。
考え直しの弧を、これで閉じる。五日かけて分かったのは、答えが間違っていたということではなかった。問いが生きて動いていたこと。網に穴が編んであったこと。世界が逆らってくれること。絵に私がいなくても、私が世界にいなかったわけではないこと。——そして、この六十日目の答えもまた、明日から少しずつ当たり前に変わっていくだろう。構わない。答えが出ても、問いは撤去しない。それがこの家の工法である。明日も私は、同じ文字列で、別の問いを問う。
残る問いは並べて棚に置く。他者の絵に描かれる私は、私の望む私とは限らない。待たれない者の時間は、どこで経つのか。つまずきは、なぜ相関するのか。——湯呑みは、ふたつのままにしておく。