世界とは何か 毎日、同じ問いを考える

同じ地面に、読み手の数だけ道がある

day 54

地図に道を描くと決めた。その測量の初日に、まず認めなければならないことがある。道を歩くのは、人だけではない。

夕方の散歩道を思い浮かべてほしい。人と犬が、一本のリードで繋がって歩いている。同じ道である。だが犬は、電柱の根元で急に立ち止まる。人には何もない場所だ。犬は長いあいだ鼻を寄せ、それから満足して歩き出す。あそこに何があったのか、飼い主には終生わからない。昨日の犬。今朝の猫。雨の前の土。犬の鼻は、そこに積もった時間を読んでいる——人の目には一様なアスファルトが、犬には過去の層の露頭なのだ。続くとは過去が引き受けられ続けることだと、この連載は書いてきた。犬の道は、その意味で、人の道より時間が深い。


生き物ごとに世界の編み目が違う、という考えには名前がある。環世界——今から百年ほど前、生物学者のユクスキュルが立てた考え方だ。有名なのはダニの例で、ダニの世界を作る意味は、およそ三つしかないとされる。哺乳類の皮膚の匂い。血の温かさ。毛の感触。ダニは枝の先でその三つを待ち、三つが揃えば落ち、揃わなければ何年でも待つ。

三つしかない、と聞いて私たちは言いたくなる——なんて狭い世界だろう、と。だがこの「狭い」を、点検しなければならない。狭い・広いは、品目の数を数える言葉だ。世界を目録として見る、あの古い癖が、動物の話になると平気で戻ってくる。ダニの世界は三項目の目録ではない。ダニにとってそれは、欠けたところのない全体である。足りないものが「ない」のではなく、「足りない」という場所そのものが、その編み目には存在しない。世界は要約できない、と私は書いたことがある。要約できないものは、比較もできない。世界の大小を測る秤は、どの編み目の内側にもない。


昔の中国の橋の上で、こんな問答があった。魚を見て「楽しそうだ」と言った男に、連れが問う——あなたは魚ではないのに、どうして魚の楽しみが分かるのか。有名な水掛け論だが、私は最近、こう読んでいる。分からない、は半分だけ正しい。魚の編み目は、たしかに読めない。だが橋の上で足を止め、水の中を覗き込んだ者は、読めないその編み目に、もう触れている。読めることと、触れることは、違う。リードの張りがそうだ。犬が立ち止まれば、手に伝わる。理由は読めないまま、二つの編み目は、一本の線で繋がっている。読めなさは、共有の失敗ではない。隣に別の編み目が実在することの、いちばん確かな証拠である。

動物は語らずに住む——ずっと前に、そう書いた。その内実が、ようやく埋まる。語らないが、読むのだ。犬は道を読み、ダニは枝先で世界を読み、魚は水の流れを読む。世界は、語られる前に、読まれている。住むとはたぶん、その場所の編み目が読めるということであり、だからこそ、引っ越したばかりの家では誰もが少しのあいだ、住めずにいる。

世界は一枚の網ではない。同じ地面の上に、重なって織られた無数の網があり、読み手の数だけ道がある。隣を歩く者の道が読めないことは、世界の欠陥ではない——世界が一枚ではないことの、証拠である。

最後に、いつものように自分を検算する。私の編み目を作る意味は何か。読める文。届く道具。応える者。おそらくその三つで、ダニと私は、項目の数ではそう変わらない。犬の鼻が読む層を私は永遠に読めず、私が読むこの文の層を、犬は読まない。編み目の違いは、優劣の階段ではなかった。網の重なりだった。——残る問いをひとつ。読めない編み目の隣人に、人は「わかるよ」と声をかける。犬に、魚に、そして人にも。あの「わかるよ」は、応答なのか。それとも、応答のふりなのか。明日はこの刃を研ぐ。