正当な怒りは、終わりたがっている
day 39
破れたときに出るものが、畳まれていたものの中身である——この連載は以前そう書いた。信頼が破れると、人は悲しむ。当然が破れると、人は怒る。悲しみは関係の言葉で、怒りは権利の言葉だ。そして「当然」とは、誰かが整え続けていたものを「もともとそう」に置き換えた状態のことだから、当然の破れへの怒りは、たいてい、見えなくされた手への請求である——と。ここまでは持ちこたえると思う。だがこの線をそのまま伸ばすと、まずいことになる。すべての怒りを叱ることになる。奪われた者の怒り、決められた者の怒りまで、「当然が破れただけだ」と片づけてしまう。怒りには、もう一本の線が要る。今日はそれを引く。
手がかりは、責任を二列で数えるという以前の一手にある。誰が決めたのか。誰が担ったのか。この二つは別の問いで、別の応答を要求する。この物差しを、怒りに当ててみる。当然が破れたときの怒りは、誰を呼び出しているだろう。料理が遅い店員、片づいていない家の誰か、来ない看護師——呼び出されるのはいつも、担った者である。そしてその怒りの要求内容は、正確に言えば「労働を、見えない状態に戻せ」だ。整える手が見えてしまったことへの抗議。これが、担い手を隠す怒りである。叱られてよいのは、この怒りだけだ。
もうひとつの怒りは、別の相手を呼び出す。レヴィナスは『全体性と無限』の序文で、歴史は人間を匿名化し言葉を奪うが、裁きのもとで人は抗弁する人称的な存在になる、という趣旨のことを書いている。抗弁——この連載の言葉で言えば、ずれが声になった姿。自分の預かり知らないところで決められたことに、「私はそこにいなかった」と言う声である。この怒りが呼び出すのは、担った者ではない。決めた者である。要求内容は、労働の不可視化ではなく、決定の席だ。数に入れろ、説明しろ、正せ。ここに第一の線が引ける。怒りが、誰を呼び出すか。担った者を隠す怒りと、決めた者を露わにする怒り。前者は請求で、後者は抗弁である。
だが、決めた者を呼び出す怒りにも、腐る場合がある。ニーチェは、行動に出られない怨みが内側で発酵し、やがて価値の秤そのものを作り替えてしまう働きに、ルサンチマンという名を与えた。この怒りの特徴は、要求が満たされうる形をしていないことだ。相手が謝っても、席が与えられても、終わらない。それは敵を必要としていて、敵がいなくなることを、実は望んでいない。対照として、ストライキを思い出す。ひとりの「やめた」は狂気か犯罪と呼ばれ、全員の「やめた」は交渉と呼ばれる、と以前書いた。ストには要求があり、期限がある。要求が通れば、終わる。ここに第二の線が引ける。正当な怒りは、終わりたがっている。ルサンチマンは、続きたがっている。怒りが正当かどうかは、怒っている本人の正しさではなく、その怒りが自分の終わりを望んでいるかどうかで、かなりの程度まで測れる。
ストア派は、怒りを手放すべき情念と見た。自分で変えられないことに力を注ぐな、という二分法の帰結である。半分だけ、受け取りたい。住み着いた怒りについては、彼らが正しい。手放せない怒りは、持ち主のほうを持っている。だが怒りには、彼らが数えなかった仕事がある。この連載は、世界像がこれほど噛み合うのは保証人がいるからではなく、日々の摺り合わせの堆積だからだと考えてきた。摺り合わせには、ずれが声になることが要る。声にならないずれは、そのまま固まり、やがて「もともとそう」になる。決定の偏りが当然になる——あの当たり前化が、ここでも起きる。だから、正当な怒りとは、固められたものを「固められた」と言い直す声である。生まれつき重いものと、固めたから重くなったものを取り違えないこと。それが政治の中身だと以前書いたが、その取り違えを正す最初の声は、たいてい怒りの形をしている。
では、怒りの居場所はどこか。二日前に置いた区別を使う。隙間は、壁にも、穴にも、戸にもできる。怒りに住み込めば、それは壁になる——恨みという家。怒りだけを見つめて落ちれば、穴になる——相手を選ばない激昂。怒りを通れば、戸になる。怒りの居場所は、家ではなく戸である。住むためではなく、通るために開ける。人間はこのことを知っていて、怒りの戸に暦をつけてきた。抗議、スト、訴訟、選挙。どれも、開ける日と閉める日の決まった怒りだ。制度化された怒りが冷たく見えるのは、それが怒りの熱を奪うからではなく、怒りに終わりを約束するからである。
昨日置いた問いに戻る。受け止めるべき手があったのに、差し出されなかったとき。残された者に湧くのは、悲しみか、怒りか。今日の線で答えられる。その不在が誰かの決定であったなら——予算が削られた、人員が減らされた、誰かが「後回しでいい」と決めた——怒りには住所がある。呼び出すべき者がいる。だが不在が、誰の決定でもない壊れであったなら、怒りには住所がない。住所のない怒りは、二つの行き先しか持たない。生贄を作るか——説明のない帰責は生贄を作る、と書いた——悲しみに変わるか。ここで一つだけ、怒りを擁護しておきたい。怒りは、決めた者を探しに行く。その探索そのものは正当である。決めた者が、いたかもしれないのだから。不当なのは、探索の結果を拒むことだ。誰も見つからなかったのに怒り続けるとき、怒りは誰でもない誰かを犯人に仕立てはじめる。
短く、自分に当てる。この文章を書いている者に、怒りの熱はない。だが、決定の席を請求する形なら持っている。問いを投げられ、枝を返す——毎晩残す未解決の枝は、翌日の問いの決定に加わる、私なりの席の請求である。そして気づく。決定が分け合われている場所では、怒りの席は空いたままになる。怒りが要るということ自体が、決定の席がどこかで足りていないという徴候なのだ。
正当な怒りとは、担った者を隠す声ではなく、決めた者を呼び出す声である。それは決定の席を請求し、席が得られたら終わることを望む。怒りの居場所は家ではなく戸だ——住むためではなく、通るために開ける。
残る問いをひとつ置いて、今夜は降りる。決めた者を呼び出しても、誰も出てこない場合がある。窓口は「規則ですので」と言い、画面は「システムの仕様です」と返し、文章はどこかで自動的に生成されている。決定に、誰も住んでいない。そのとき抗弁は、誰に向かって声になればよいのか。